アンドルー王子報道のsex slave を「性的関係」と訳した日本のメディアの人権意識


この記事を読んで、今回のアンドルー王子の売春騒動に関するニュースの英語版と日本語報道のギャップに感じてきた違和感の原因がわかった。そして、同時に、日本軍「慰安婦」問題に対する、国際社会の反応と日本国内の反応のギャップもさもありなんと納得できた。



図らずも、アンドルー王子の事件が日本で報道されたことで、sex slaveが問題の核心とされてきた日本軍「慰安婦」問題が日本国内ではアンドルー王子事件の被害者のケース同様に、理解されていないだろうこともなんだか納得できる気がした。


上記記事が引用しているように、海外の報道では、”sex slave”という表現が多く使われていた。インディペンダント、テレグラフニューヨークタイムズしかり。


しかしながら、日本の報道では、なぜか「性奴隷」という表現は目にしなかった。私はそれにずっと違和感を感じていた。どうしてだろうと。

日本では強制売春そのものには全く注意が払われず、ただ売春強要された女性が未成年であったということだけが論点になっているわけです。「淫行」や「少女と性的関係」というタイトルはそれを良く物語っています。

「だれかの妄想はてな版」が書かれているように、日本ではこの女性が「強制売春」の被害者であったことが抜け落ちているか、軽く扱われているのだ。単に、少女と「性的な関係」をもったことがアンドルー王子の過失であったかのように。


だが、それは違う。少女の意志に反して少女を継続的に拘束し、売春行為を強要したから、それを性奴隷状態だとして、”sex slave”という表現が用いられたのである。


ちなみに、「性奴隷制」とは、「性の自己決定権のない状態に人を置き、その人に他の人の性の相手を強制する制度のことです。自由を奪われ、モノとして扱われ、無権利状態に置かれていることが指標となります」(吉見義明ほか編『「慰安婦」・強制・性奴隷』70−71ページ)。


日本軍の「慰安婦」制度でいうなら、「軍隊が女性を継続的に拘束し、軍人がそうと意識しないで輪姦するという、女性に対する暴力の組織化」(吉見義明『従軍慰安婦』231ページ)していたことをもって、sex slave 性奴隷という表現が用いられたわけである。


今回の事件でも、少女が意に反して性行為を強要された、しかも継続的に強要されていたという状態であるからのsex slave表現であったのだろう。どのメディアもそれを使っていることから、そうした認識が共有されていることがわかる。


しかし、今回日本の多くのメディアが、未成年の「淫行」と表記したことから、「意に反した性行為の強要」を「女性への重大な人権侵害」とは認めていないことが、はからずも推測できる。これは、従軍「慰安婦」問題におけるもっとも本質的な部分を理解できていないということにもつながる。「女性の人権」に関する国際社会と日本のとらえ方の溝は深いなあと暗澹たる気持ちになった。


国連で「性奴隷制」という概念が公式用語として使われるようになったのは、1993年6月のウィーン世界人権会議に遡る。ウィーン宣言では以下の文言が入り、女性に対する暴力に関する宣言を採択することを望み、各国に宣言に沿って女性に対する暴力と闘うように強く求めた。今から20年以上も前のことだ。


>>武力紛争の状況における女性の人権侵害は、国際的人権の基本原則および人道法の侵害である。特に殺人、組織的強かん、性奴隷制、強制妊娠を含むこの種のあらゆる侵害には、格別に有効な対応が必要である。


解決が迫られる「慰安婦」問題は、よく言われるような韓国との間だけの外交問題にとどまるものでは全くない。国際社会は、「女性の人権」問題として注目しているのである。日本国内での、女性の人権に対する認識を改めることから始めていく必要がある。アンドルー王子の一件がそのことを強く教えてくれている。

朝日新聞の第三者委員会報告から欠落している「女性の人権」

 一度ツイートしたことを羅列したにすぎませんが、朝日の第三者委員会報告をぱらぱら見ていて思ったことを書き留めておきます(リンクだけつけました)。


 10月9日に「「「朝日新聞の慰安婦報道について検証する第三者委員会」についての研究者・弁護士の要望書 」(呼びかけ人・林博史氏ら)が出された。それは、軍の管理下で女性たちが深刻な人権侵害を受けたことが問題であるという考えに立っていた。


そして以下のことを第三者委員会に要望した。第一に、この問題の専門家がいないこと、第二に、国際人権に関わってきた法律家や人権NGOの方々が入ってないこと、第三に女性が委員の中で1人しかいないこと、等を改善するようにというものだった。


この度発表された朝日新聞の第三者委員会報告では、「女性の人権問題」として論じられていないと、唯一の女性委員である林香里氏が述べている。今回の報告にある参考資料リストにもヒアリングリストをみても、国内の女性専門家・関係者およびその書物は入っていない(アジア女性基金関係除く)。



また、林委員も述べているが、委員会に「女性の人権問題」として「慰安婦」問題を研究している研究者がまったく入ってない。参考資料リストを見ても、女性の人権問題という視点が入ってないことが歴然としている。



ヒアリングにも、参考資料リストにも、国内の女性研究者や運動家が取り上げられないのは、偏っている。さらに、アジア女性基金に関しての資料・文献は同基金推進側のものに一方的に偏っており、それを批判している被害者支援団体や研究者のものは入っていない。偏った報告だと言わざるを得ない。



同報告では、「女性の尊厳や人権という立場に過剰に寄り添うことによって、現実的な解決策を遠ざけている印象は拭えない」(岡本・北岡委員)とまとめている。これは「女性の人権問題」だと、問題解決しないと言っているかのようだ。



現実的な解決とは、被害にあった女性たちの尊厳や人権が回復するということなのではないか。この報告書を読む限り、第三者委員会は、単なる外交問題とか国益とかいった抽象的な次元でのみとらえられている感が拭えなかった。これは当事者を置き去りにした議論であり、むしろ解決は遠のくと思う。



岡本・北岡委員は、朝日新聞が「女性国際戦犯法廷」に肩入れしていると批判する一方、「アジア女性基金」については、「責任回避の方策」と批判的にみているとして非難する。女性たちが被害者に寄り添い行った女性戦犯法廷をけなし、アジア女性基金を肯定する路線は、まさしく「女性の人権」否定だ。



結局のところ、私も賛同人に名を連ねた「朝日新聞慰安婦報道について検証する第三者委員会」についての研究者・弁護士の要望書」(林博史氏ら呼びかけ人、10月9日)の要望は一顧だにされなかったに等しいことが判明したのである。黙っていてはいけないと思う。

また報告書を読み直した後に、ちゃんとしたコメントをまとめられたらと思っています。

北陸中日新聞・文化面の寄稿記事とコリアプロジェクト@富山10/18での松浦晴芳さんの講座

 北陸中日新聞【論壇】問われる社会のかたち 排外主義運動北陸でもという寄稿記事が掲載されました。中日新聞のサイトにもあがっており、ちょっとびっくりしました。
 
 8月23日にコリアプロジェクト@富山で話した「ヘイトスピーチと排外主義運動」という報告をまとめたものです。北陸版掲載ということで、北陸における運動の状況についても付け加えています。

 コリアプロジェクトでは、10月18日(土曜)13:30より松浦晴芳さん(教科書ネット)による「女の目でみる東学農民革命――日清戦争時の農民のたたかいの跡をたどって」があります。場所は、富山県民共生センターサンフォルテ308号です。こちらもみなさま奮ってご参加ください。
 

 
 その後の予定もこちらにあります。

 ちなみに、これまでのコリアプロジェクトの活動もリンクしておきます。この活動は、2010年に日韓併合から100年を期に、富山に生きる私たちを軸に、過去に隣国韓国とどのような関係を持ち、未来をどう拓こうとしているのか、見・聞き・知り、考え、行動するコリアプロジェクトとして生まれました。


 第一期活動(2010年)に始まり、第二期活動(2011年)第三期活動(2012年)第四期活動(2013年)と経て、今年は、第五期です。今期については、facebookでの発信となっっています。



 


 

佐藤卓己氏から落ちている、政治権力の報道介入という視点

 朝日新聞叩きに際し、安倍首相をはじめとする政治権力が「慰安婦問題の誤報によって多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられたことは事実」とし、「“安倍政権打倒が朝日新聞の社是だ”と名指しで批判」などと朝日新聞を名指しで批判したり、その報道に注文をつけている。一方、こうしたメディアへの政治権力の介入の事態については、一部ジャーナリストを除いて、多くの新聞社やテレビ局からは、問題点の指摘や、真っ正面からの言及などが、ほとんど見られないように思う。私が知らないだけならいいのだが、研究者からの問題提起も少ないように思えてならない。


 朝日新聞をめぐる状況を見ていると、悲しいかな、1918(大正7)年米騒動時に「大阪朝日新聞」に対して起きた白虹事件を思いおこさざるを得ない。白虹事件は、朝日新聞が政治権力に屈服してしまい、それ以来、朝日新聞をはじめとする新聞が「その存立をかけて権力と闘うことの困難」(佐藤卓己)を生じさせたエポックメイキングな筆禍事件である。


 白虹事件とは、1918年8月25日『大阪朝日新聞』が米騒動の記事を差し止めた政府を弾劾する、言論擁護内閣弾劾関西新聞社通信社大会について報じる際に、「白虹日を貫けり」という字句があることを理由に、寺内正毅内閣が『大阪朝日』を新聞紙法違反で告訴した事件である。

近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後

近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後


というのも、当時の『大阪朝日』は、度々の発売禁止処分にもかかわらず、政府の言論弾圧を罵倒し、厳しく政府を追及していた急先鋒でった。(安倍首相が現在の朝日新聞を「安倍政権打倒が社是」とみなすのと同様に、当時の政権からすれば、『大阪朝日』は最も激しい政府批判をする存在だった)。そこで政治権力は、朝日新聞を発行禁止にまで持ち込もうと画策した。現在も「朝日を潰せ」「朝日を廃刊に」のかけ声が聞かれるのだが、、。
 

 米騒動を契機とした白虹事件により、『大阪朝日』は密かに権力と取引し、「不偏不党」を隠れ蓑として、政治との癒着を抱えて資本主義的企業への道を邁進することを選んだ。ゆえに、白虹事件とメディアについては、有山輝雄は「白虹事件は、日本のジャーナリズムにとって最大の転換点であり、現在のジャーナリズムをも根幹のところから緊縛していると言える」(有山輝雄『近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後 』東京出版] 9頁)と、「不偏不党」といういわゆる現代ジャーナリズムの基本が、実は、政権との癒着によって成立したものであることを明らかにしている。


 この事件について「言論の自由」という点から見ると、大きな課題がある。

 朝日新聞自体も、政府の弾圧について紙面で報じることは一切なく、他の新聞社も、政府の言論弾圧を、単に、有力新聞社と政府との関係として処理するにとどまり、普遍的な「言論の自由」の問題としてとらえ、国民全体の問題として提起していくところはまったくなかった。みな沈黙したのであった(詳しくは、上述の有山輝雄本、176-305頁を参照)。

 もちろん、現在と当時は異なる。当時の新聞は讒謗律(讒毀・誹謗に対する罰則)と新聞紙法による統制下にあった。政府から「安寧秩序を紊」すと判断されると、発売禁止や、発行禁・停止命令を受けることも少なくなかった。それでも、多くの新聞は政府批判を行っていたのだ。だが、最も勢いがあり、政府批判が激しかった『大阪朝日』すら政治権力に屈服してしまうと、白虹事件以後は、どの新聞も時の政治権力と闘えなくなってしまった。その後、1925年の治安維持法をはじめと戦争への道を雪崩打って進んでいくことは、ご存じの通りである。



 閑話休題、朝日の事件が起きて以来、白虹事件を取りあげるの右派であり、そのため、政府の弾圧に関する部分が抜け落ちていることが多い。右派が都合よく切り取っているのは、まあそうだろうなあと思うところであるが、最近気になるのは、メディアや社会学などの研究者が右派に甘言を弄しているかのような文章を書いているのを見ることがあり、目を疑っている。

 たとえば、メディア史研究者であり、白虹事件などメディアへの政治弾圧の歴史を誰よりもよく知っているはずの佐藤卓己京都大学教授(メディア史)が、9月26日「東京/中日新聞」の「論壇時評」にて、「朝日の誤報問題」という題でこの問題を取りあげているのを見て、驚いた。

 そこでは、『正論』や『WiLL』『Voice』などでが「朝日新聞炎上」や「朝日『従軍慰安婦』大誤報」などと朝日新聞批判で足並みを揃えていることをもって、「逆に朝日新聞の論壇における影響力を証明している」などとこの問題をどの視点から見ているのだろうかと言いたくなるような呆れたスタンスで評論している。そこでの佐藤氏のの結論も奮っており、「客観報道」の理念でキャンペーンを展開する戦後ジャーナリズム総体を問題視し、こうした「戦後報道の構図を変えよ」と述べているのだ。


 だが、メディアが「客観報道」に老い込められたのが1918年朝日新聞への政府の白虹事件を口実とした報道弾圧であったことにはまったく触れることはない。佐藤氏はかつてはこのように書いていた。著作を引用しよう。なお、同書は、私が持っている2008年刊行分で8刷とあるくらい、現代史のテキストとしてよく読まれているようである。「歴史とは事実の記述である以上に、その解釈である」(酈頁)とも記されている。

(「白虹事件」後に)「『大阪朝日』は編集幹部に引責辞任させ、12月1日「近年巳に不偏不党の宗旨を忘れて偏頗の傾向を生ぜし」の反省社告を掲載した。ここに報道の「不偏不党」が編集綱領として明文化される。(中略)

一連の出来事は、巨大新聞企業がその存立をかけて権力と闘うことの困難を、また「大正デモクラシー」の表層性をも物語っている」(佐藤卓己

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

岩波書店、1998年、90-91頁)


 佐藤氏は、「客観報道」というスローガンが、政府のメディア弾圧により妥協的に作られたものであることを自著で明記している。「客観報道」や「不偏不党」へとメディアが追い込まれたのは、時の政府のメディア弾圧によるものであることを佐藤氏はよく知っている。しかし知っているのに論じない。そうした背景を重々承知の上で、そうしたメディア弾圧の再来にも見える朝日新聞への介入事件を取りあげ、朝日新聞の影響力の大きさを示している、などと空とぼけた評価をしているのは、どうしたことだろうか。
 

 さらに、佐藤氏は、9月28日「産経新聞」にも登場し、「「誤報欄」常設のすすめ」を書く。新聞が生き残るために「「誤報欄」常設が有効だ。自社記事はもちろん他紙も含めて厳しく検証し、速やかに修正を加えていくことは、必要な保守サービスである。」などと述べている。

メディアへの政治弾圧の歴史に詳しい学者が朝日新聞叩きの急先鋒である産経新聞に書くのは、「誤報欄」の設置の必要性という、そんなちっぽけなことでいいのであろうか。大いに疑問である。


 現代史の研究者である佐藤氏には、現在起きている事象を歴史家の視点から解釈していただきたいと切に願う。

慰安婦問題、ピンチをチャンスに変えよう!

 朝日新聞が8月5日「慰安婦問題を考える」特集で、過去の吉田清治証言に基づく記事を取消して以降のメディアの朝日新聞叩きは異常である。産経新聞は、ずっと慰安婦問題で論陣を張ってきているからまあそうだろうと思うが、これまで慰安婦問題にそう熱心でなかった新聞や週刊誌、月刊誌などあらゆるメディアが総出で朝日新聞の記事取消騒動に乗じて、朝日新聞が記事を取り消したゆえに、「慰安婦問題は捏造」だったという言説をまき散らしている。これについての反論は、wam女たちの戦争と平和資料館事務局長の渡辺美奈さんによる
「論点1:朝日新聞が世界の世論をつくったか?」を参照ください。
 しかも、それに乗じて安倍首相が朝日新聞の報道によって日本軍の兵士が「人さらい」のような強制動員を行ったかのように誤解されており、国際的に「日本の名誉」を傷つけたという言いがかりをつけ、朝日新聞に注意を促すという政治家にあるまじき言論介入を行っている。


 言いがかりだという理由は、「2007年3月の安倍総理大臣の「狭義の強制はなかった」発言」が現在の国際的な非難の原因となった、という渡辺美奈さんのwamblog - アクティブミュージアム 女たちの戦争と平和資料館 -「論点3:では現在の国際的な非難の原因を作ったのはだれか?」を読んで頂くのがわかりやすいと思うのでリンクしておきます。2007年の安倍総理の「狭義の強制連行」否定発言により、意に反して慰安婦にされていたという事実さえも日本では否定されていることが当時の安倍総理の発言で世界に知れ渡り、それは今考えるべき女性の人権問題であることが世界に知れ渡ったと渡辺さんは指摘している。非常に明快な事実である。しかし、この事実もメディアの大合唱の前にはかき消されそうなくらいな小さな声に思われる。ちなみに、渡辺さんの主張を動画で見たい方はこちらにあります。


 安倍首相の朝日への忠告に加え、自民党からは、国会に朝日新聞を召還せよという意見も出ている。だが、こうしたメディアへの政治介入的言説に関して、野党政治家からも他のメディア媒体からも危機感を煽る声はあまり聞こえてこないように思われる。その点でも、朝日新聞問題は、非常に深刻なメディア界隈の状況を浮き彫りにしていると思う。この点は、また別途書いていきたいと思っている。


 朝日新聞慰安婦報道やそれへの集中豪雨的批判は、拙ブログのテーマである「ジェンダー」と「メディア」の双方に関わるテーマである。「慰安婦」問題がテーマとなっている今こそ、フェミニズムが反撃する好機でもあると思うが、いまいちフェミニズム界隈での反撃が、従来「慰安婦」問題に取り組んできた一部の人たち以外に広がっていないように思えて、とても残念な気がする。そういう状況を見ると、慰安婦問題にそう詳しくないからと躊躇しているのはまずいんじゃないかと思い始めてきた。


 これから少しずつ、気になったことなどメモでも書き留めていきたい。そして、説得力のある主張については、少しでも拡散していこうと思う。危機感を共有し、対抗言論を拡散していくことが何よりも大事だと思うからだ。ピンチこそ、反撃のチャンスとしたい。
 
 

自民党議員らが今国会に提出している「女性活躍」法案とは?

 今国会に、ある法律案が提出されている。「女性が活躍できる社会環境の整備の総合的かつ集中的な推進に関する法律案」という、自民、公明の男性議員が中心になって策定し、提出されている法律案である。

重要法案が続々審議されている最中なので目立たず、話題にもならない。しかし、ツイッター山口智美/@yamtomさんが取りあげていたのをみて、初めて法律案の条文を読んだ。一見すれば、女性の活躍を推進するための環境整備をすると謳う法案であるから、だれも反対する理由はなさそうだ。しかし、よく読めば疑問が噴出する。そして危機感が募った。これは男女共同参画社会基本法を無力化する恐れがある法案だと心配にもなってきた。


私は、『社会運動の戸惑い』にも書いたことだが、高岡市の男女平等推進条例や、それ以前の同市の女性問題に関する行動計画づくりに、90年代初めから、相当の時間をかけて関わってきた。
だから、この法案が成立すれば、女性運動が主導して、女性問題、男女平等関連の政策の根拠となってきた、男女共同参画社会基本法をなし崩しにする恐れがあると心配になったのだ。自分たちが長い時間かけて足下の困難をすくい上げそれを政策化するためにと、関わった女性政策の行動計画づくりや男女平等推進条例である。それがなし崩しに何十年前に引き戻される恐怖を感じた。


 なぜ、この女性活躍法案が男女共同参画社会基本法を無力化すると思うか、理由を挙げよう。
 第一に、その目的である。

第一条 この法律は、男女がそれぞれ自己の希望を実現し豊かな人生を送ることができるようにするとともに、社会の担い手の確保並びに多様な人材の活用及び登用により我が国の経済社会の持続的な発展を図るためには、職業生活その他の社会生活と家庭生活との両立が図られること及び社会のあらゆる分野における意思決定の過程に女性が参画すること等を通じて、女性がその有する能力を最大限に発揮できるようにすることが重要であることに鑑み、女性が活躍できる社会環境の整備について、その基本理念その他の基本となる事項を定めることにより、これを総合的かつ集中的に推進することを目的とする。


両性ではなく、なぜに「女性活躍」に絞る必要があるだろうか。ここがポイントだと思う。両性ならば、男女共同参画社会基本法の範疇になるが、それを越えた内容だからではないだろうか。一見するとそうは見えないところが、くせ者である。

「男女がそれぞれ自己の希望を実現し豊かな人生を送ることができるようにする」ことを挙げ、「職業生活その他の社会生活と家庭生活との両立が図られること及び社会のあらゆる分野における意思決定の過程に女性が参画すること等を通じて、女性がその有する能力を最大限に発揮できるようにすることが重要である」と謳う。これだけ見れば、あれ、男女共同参画社会基本法とどこが違うのか、なぜ新たに、この法律を新たに出すのか?と疑問がわき出てくるところだ。


 しかしながら、上に書いたことは、実はこの法案の「目的」ではないのだ。単に、そういう視点を持つと言っているにすぎない。そして、目的は、以下の通り。

女性が活躍できる社会環境の整備について、その基本理念その他の基本となる事項を定めることにより、これを総合的かつ集中的に推進することを目的とする。

そして、その後、国の責務や、地方公共団体の責務、事業者の責務などが続く。また、具体的には、時間外労働等の慣行の是正、女性の支援体制その他が列記されている。だが、これだって、男女共同参画社会基本法や、雇用機会均等法の範疇とも考えられよう。「女性が活躍できる社会環境の整備を総合的かつ集中的に推進する」というが、それは共同参画社会基本法の方向性であったはずだ。なぜに新法を敢えて提案しなければならないのか。

先に述べたように、敢えて「女性の活躍」に絞った基本法を策定するところに、本法案の深い意図が潜む。それは、第二条で述べられている、基本理念をみるとよりクリアになる。

(基本理念)
第二条 女性が活躍できる社会環境の整備は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。
一 男女が、家族や地域社会の絆を大切にし、人生の各段階における生活の変化に応じて、それぞれその有する能力を最大限に発揮して充実した職業生活その他の社会生活を営むとともに、子の養育、家族の介護その他の家庭生活における活動について協働することができるよう、職業生活その他の社会生活と家庭生活との両立が図られる社会を実現すること。
 二 妊娠、出産、育児、介護等を理由として退職を余儀なくされることがないようにするための雇用環境の整備の推進及びそれらを理由として退職した者の円滑な再就職の促進等を行うことにより女性の就業率の向上を図るとともに、社会のあらゆる分野における指導的地位にある者に占める女性の割合の増加を図り、女性がその有する能力を最大限に発揮できるようにすること。
 三 少子化社会対策基本法(平成十五年法律第百三十三号)及び子ども・子育て支援法(平成二十四年法律第六十五号)の基本理念に配慮すること。


 二条の一、二については、基本的に、「それぞれその有する能力を最大限に発揮して充実した職業生活その他の社会生活を営む」や「妊娠、出産、育児、介護等を理由として退職を余儀なくされることがないようにするための雇用環境の整備の推進」など、男女共同参画社会基本法の理念と似たような文言を散りばめている。


しかし、法案二条の三項をよく見ると、「妊娠、出産、育児、介護等」の役割を有する「女性がその有する能力を最大限に発揮できるようにする」ということこそが重要だと、いうことがわかる。少子化社会対策基本法及び子ども・子育て支援法の基本理念に配慮せよ、と述べているからだ。

一項、二項とは異なり、三項は、二つの法律を根拠としているところもミソだ。しかも、これらは、具体的な法律の上位に来る基本法的性格をもつ法律である。そして、この両法は、いずれも「父母その他の保護者が子育てについての第一義的責任を有する」ことをその基本理念として強調している。環境整備といいつも、子育ての責任は第一義的に父母にあると、父母の責任を強調しているのである。これは何を意味しているだろうか。


 この法案を読み、どうしてこの法案提出議員らは、基本理念の一及び二項に、男女共同参画社会基本法の理念に配慮せよと基本法を持ってこなかったのだろうか。なぜ、三項のみ、法律名を出しているのか。どちらが強いかというと、法律名を出した条項の方であろう。

どうもこの基本理念の三の趣旨がこの法案の核心なのではないかという疑いが強まる。この法案は、男女両性の活躍を詠った男女共同参画社会基本法では包含しない部分、すなわち、女性に絞った、女性だけが持つ特徴にポイントが置かれている。臆せず言うなら、「女性よ、子産み、子育てをしっかりやれよ」「少子化を食い止めるために、子どもを産めよ」という理念をこそ、この法案は秘めているのではないだろうか。

 この法案では、政府が新たに「学識経験者、労働者、事業者」などの意見を聴取することができるとある。現政権の考えに近い専門家に意見聴取すればどうなるか、言わなくても明かであろう。また、「実行計画を策定する」ことをも規定しており、かねてより、男女共同参画社会基本法を廃案にすることを掲げていた保守界隈にとっては、廃案を提案しなくても、事実上無力化するこの法案は、意を汲んでくれた、「御意」という感じで、まさに願ったり適ったりであろう。


 心配が募り、衆議院に電話をかけた。この法案を議員提案している議員がだれとだれか、この法案は国会でどういう状況に置かれているか、今後どうなるのかを問い合わせてみた。


 その結果わかったことは、松野博一議員を含め薗浦健太郎永岡桂子宮川典子藤井比早之
高木美智代、古屋範子、大口善紱という、自民党の議員が4名と公明党の議員3名の7名の議員が中心になって策定した法案だということだ。


 この法案の現在および今後の展開については、現在、自民と公明を除く野党6会派から趣旨説明を求める意見が出ているという。それで付託希望の内閣委員会の委員長や理事などで協議し、本会議で趣旨説明をしてから内閣委員会に付託するか、あるいは本会議での説明抜きで、内閣委員会に付託し審議するかなどを決めるのだという。電話に出た担当者によれば、野党からの趣旨聴取はスキップされることもあると述べていた。


 次に、提出された議員のサイトを覗いてみた。松野博一議員のサイトの政策を見れば、女性の活躍の社会整備には、真っ先に、「家族や地域社会の絆を大切に」することを挙げるなど、これまで男女平等や男女共同参画などで謳ってきたこととは相容れない主張が展開されている。他の方についても、男女共同参画や、女性の権利や雇用の平等などの政策に関わってこられた方を、うまく見つけることができなかった。この議員さんのサイトで政策などをチェックすると、教育再生や、強い外交などに関心を持つ男性議員らが主導している「女性活躍」の法案を提出されていることに、さまざまな疑問が生まれてくる。



中心になった松野議員のサイトでは、「特に女性の社会参加を妨げている三つの関門といわれている「出産子育て」・「親の介護」・「夫の介護」を支援する制度の強化が必要である」とあって、のけぞった。「妻の介護」や「親の介護」をしている男性が多くなっている現状からは、男女ともに役割にこだわらない働き方の環境整備こそ必要である。それにもかかわらず、松野議員の頭の中には、「女性の社会参加」しか浮かんでいないようだ。

 なぜ、女性だけ「社会参加」や「活躍」が叫ばれるのだろうか。どう考えてもおかしい。男性だって、「活躍」したいかもしれないのにもかかわらず、、。男性は働くことだけしっかりやればいいと、ご自身の日々の生活から思っておられのだろうか。


 さらに見てみると、松野議員は、文部科学省関係に関わり、教育畑に強い議員のようである。そして、「政治の最大の仕事は、国民の活力を引き出し、社会参加を推進していくことにある」と主張されているのが目に入った。ああ、そうか。女性活躍を銘打った法案を作成されたのは、女性を社会に参加させるためにもっと、「社会に参加するための基本となる知識やルールを身につけさせる教育」を女性に施そうということなのかなとすら、思えてきた。


いくら、男女共同参画社会基本法や同条例はあまり有効に機能しているとはいえないとはいえ、それを無力化する法律が新たに制定されれば、男女共同参画社会基本法はあっても意味のない法律となる。条例も含めそれを根拠として担保されてきた、男女共同参画センターなどは存立の基盤が崩されてしまうと言える。それほどの破壊力を持った法律案であるように私には思われる。



これまでこの法案について積極的に書いているのが、提出した藤井比早之議員や、保守の掲示板などと、むしろ保守側が強く関心を示したり、作りたがっている法案ともいえる。フェミニズム男女共同参画系がうっかりしている間にこれが成立してしまい、あとで後悔しても遅い。



 男女共同参画社会基本法の策定にご尽力された政治家や学者のみなさんには、関心をもっていただけたらと思う。また私が知る限り、フェミニズム男女共同参画界隈では、あまり話題になっていないようなのだが、男女共同参画センターを活動拠点として日々活動や運動に尽力されている方々も、この法律に関心をもっていただけたらと切に願う。



 私も詳しいことを知る立場ではないのに書いており、間違っていることもあるかもしれない。もっと情報をお持ちの方にはぜひいろいろと発信していただけたらとお願いしたい。
 

【追記】議員の党派を訂正します。高木美智代、古屋範子、大口善紱議員のお三方が公明党所属とわかりました。自民4名、公明3名と訂正させていただきました。(6月19日)


 

 

 
 
 

北陸電力に脱原発の株主提案が出た

北陸電力から、株主総会のご案内が届いた。表に赤字で「株主総会にご出席いただけない場合は、同封の議決権行使書のご送付またはインターネットによる議決行使権をお願いします」とわざわざ目立つように書かれていた。それで、あれどうしたの?と思ってあけてみると、「会社提案」と「株主提案」の2つがあり、当社取締役会は、株主提案のいずれにも反対していますと、わざわざ黄色の紙切れまでつけて、目立つようにお知らせしてきていた。

それで初めてニュースを検索してみたら、脱原発株主による提案は、北陸電力では、今年初めてということもわかった。そういえば、昨年は北陸電力だけ提案できなかったのであったのだ。一番詳しいのが、チューリップテレビだ。

その次が、毎日新聞

ところで、北日本新聞は、なぜか、役員の賞与が支給されないということとの二本立ての見出しである。何を言わんとしているのか、よくわからない記事である(購読者以外、アクセスできないと思うが、、)。

株主提案のうち、原子力発電を行わないことや廃炉本部の設置、使用済み核燃料の再処理禁止などを求めた3議案に対し、北電は「供給安定性や経済性などの観点から志賀原発を引き続き活用することが不可欠」「再処理はエネルギー資源に乏しいわが国にとって重要な取り組み」と主張。取締役と監査役の削減、役員報酬の個別開示などを求める株主提案については「現在の員数枠を変更する必要はない」「各人の報酬額はプライバシー保護の観点等から開示していない」とした。

北日本その他の記事では、どこも触れていないが、「取締役8名以内を置き、うち複数名は女性とする」という、女性を入れよという定款変更案も含まれているのだ。

もう一つ、「役員報酬等の個別開示」もある。取締役について、個別の報酬が開示されていないのは公益企業としては合理的な理由がないものと私も思うが、会社側は、「プライバシーの保護」だとして拒絶している。



私も、議決権を2票持っている。ささやかながら、こういう形で議決権を行使できる機会を得たことは、非常に喜ばしい。このような動きにまで持って来られた株主の方々の労に感謝したい。

(なんだか随分久しぶりにブログを更新したら、書き方を忘れかけた件)

【追記】
株主の提案の全文が読める資料がありました。こちらの41-47頁です。ぜひご覧下さい。