*誰を利するのか?という批判

  • 行政が使い始めた「ジェンダーフリー」概念が誤訳に基づいていたことやあいまいな意味しかないことを公けの場で提起したら、さっそく強い口調で飛んできたのが「今それを言うことは誰を利するのか」という批判だった。
  • デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』(デレク・フリーマン)を読んだ。フリーマンが人類学の大御所となっていたミードの『サモアの思春期』を批判する書を出した時にもとりわけ、社会変革をめざす改革派や進歩派の側から、そうした強い非難に出会ったという。人種主義や保守主義を利するものだといって。
  • フリーマンの書で興味深かったのは、学説が出される学界のコンテクストを丁寧に紐解いていることだ。今、何がどのようにして正しい主張となるかには、その社会的背景、学界事情が大いに影響しているのだ、ということがよくわかる。ミードの文化決定論は、当時ゴールトンの優生学など生物学決定論が優勢になっていたゆえに師匠のボアズから待望された研究であったのだという。
  • 話は変わるが、今、日本のジェンダー研究で何より求められているのは、「男らしさ・女らしさ」という性別特性論の乗りこえだと思う。「男らしさ・女らしさ」という性差意識を乗りこえるべき課題として取り組んできた日本の男女平等政策は、基本法で転換を迎え、ジェンダー主流化への道を切り開くかと思っていたが、甘かった。
  • 基本法、各地の条例制定以後も、意識啓発以外の事業に予算を振り向けるようになったという話は聞かない。依然として、啓発事業でお茶を濁している。これがどうしてジェンダー主流化と言えるのだろうか。
  • それからすると、基本法、条例のどこがまずかったのか、検討する必要があると思う。
  • 私には、「性別にとらわれずに自分らしく」という部分が性差意識論を引きずっており、「男女共同参画」定義の中でも問題箇所に思える。