*『世界』4月号「ジェンダーフリー」特集(タイトル変更)

『世界』4月号「ジェンダーフリー」特

  • 昨日のブログで朝日新聞富山版「随想 とやまの目」に、1970年秋朝日新聞都内版で「ウーマンリブ」記事を頻繁に企画、執筆された蜷川真夫記者のことを書いた。ところで、細谷実氏が以下のようにお書きである。

「70年代に日本全国において澎湃と起こったウーマンリブ運動について、その登場をプロデュースした『功労者』を指定することは難しい」(細谷実「男女平等化に対する近年の反動はなぜ起きるのか?」『世界』4月号、p.98)

  • しかし、上で挙げた朝日首都部の蜷川氏は、朝日都内版で「ウーマンリブ」キャンペーンを実質的にプロデュースしていると言っていいだろう。名前が定まらなかった当時の女性運動に「ウーマンリブ」という名前をつけて、デモの前触れ記事や、誌上座談会、デモのルポなどさまざまな企画を考えて女性たちの新たな動きを紙面化しているのである。おかげで、朝日の70年10-12月におけるリブ報道は50件にもおよぶ。そのうち、蜷川氏の記事は13件になる。「功労者」という表現はあまり適切とは思わないが、「ウーマンリブ」という活動の存在を広く知らせ、女性たちをネットワークするのに貢献したことは確かである。
  • それについては、論文*1にまとめているので興味のある方はご参照ください。
  • 細谷氏は、「バックラッシュの急登場の『功労者』」として産経新聞メディアの存在を強調するために、対比して「ウーマンリブ」はだれも押し上げなかっただろうと言われたようだ。
  • 昨日の「とやまの目」では、1918年富山県新川地方で起きた米騒動でも井上江花が「女一揆」などと積極的に全国に送信したことにも触れた。社会に新たな潮流が起きても女性運動だったらだれもバックアップしないだろう、と調べもしないでいうのはステレオタイプな見方ではないだろうか。
  • 細谷氏の「男女平等化に対する近年の反動はなぜ起きるのか?」論考は、そのジェンダー史観という基本的なところで疑問を感じる。「近年の反動が起きる前」の項で、戦後日本のジェンダー史を以下のように概観されている。

「敗戦後の社会の民主化において、憲法14条や24条などの法規範の創出によって、男女平等の方向、そして男女分離をなくす方向(たとえば、男女共学化や、男性組織としての軍隊の廃止)での改革が基本的には実現した。この時点では、日本のジェンダー平等は、世界的に見ても先進的なものと言えた」(p.96)

  • しかし、私の考察によると、占領軍は、敗戦直後日本の「非軍事化」を目的に「婦人参政」キャンペーンなどによってシンボルとしての「民主化」を進めようとしていた。その際、夫の横暴と闘ったり、職場の女性差別賃金に憤っていた草の根女性たちは、意味の定まらないマジックタームとしての「婦人参政」や「民主化」路線に激しく反発していた。
  • 決して、それらの改革を「男女平等の方向での改革」とみなす女性ばかりではなかった。市川房枝らの婦人参政権運動は、激しい反発をも受けていたのだ。細谷氏は、女性運動でも主流派の動きだけを見て言っておられるように見える。興味のある方は、*2を参照ください。
  • 敗戦時の、「民主化」は、行政が導入し、進めた意味の定まらないことばという点で、現代の「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」と似ているように思う。いずれも時代の変わり目に「なぞのことば(呪文語)」として便利に使われ、その結果、社会変容の意味が読みとりにくくなっている。後になってみて、あのとき「男女平等が本当に進んだのだろうか?」ということになっていはしまいか。なぞの呪文語は潮の変わり目にしばしば登場するようだ。
  • ついでに、おまけ。朝日の記者であった蜷川真夫氏の名前を私が最初に知ったのは、1993年に刊行された秋山洋子『リブ私史ノート』で秋山氏が取材されご経験から書いておられたからであった。その時、名前を書き誤っておられたので実際に蜷川氏にお会いして確かめ『女性学』で「真夫」氏であると書いた。しかし、2004年に、鹿野政直氏が『現代日本女性史ーーフェミニズムを軸として』に私の論文を紹介くださっている中で、蜷川「貞夫」氏になってしまっている。ああ!! 蜷川真夫氏の名前はどうしてうつろいやすいのか(ゆきお→まさお→さだお) ここいらで、ウーマンリブ記事をプロデュースした記者「蜷川真夫(にながわまさお)」氏の定着をしかと図りたい。
  • 上で書いたことで一番言いたかったことが落ちているようなので追加する。一つは、別サイトで女性運動・行政・女性学の関係を運営し主張しているが、主流女性学における「東京中心の主流女性運動だけに焦点をあてる傾向」、「女性運動は男メディアにしてやられてきたという被害者史観」への批判である。つまり、主流女性学が依然として女性運動をステレオタイプ視した分析をしているのはおかしいと思う。それでは保守派の批判を乗りこえられないのではないか。
  • 『世界』の「ジェンダーフリー」「男女共同参画」概念:『世界』4月号の「ジェンダーフリーって何?」特集全体に感じることなんだけど、ジェンダーの問題を「能力、適性、役割」など個人的資質に収斂させすぎていませんか。例えば、以下である。

「『ジェンダーフリー』とは、教育分野を中心に二〇世紀の末に広がった和製英語あるいはカタカナ日本語であり、人間の能力や適性や役割を男女というくくりによってではなく、個人に即して考えて、最適な処遇(教育)をしていこうという考え方を表示する言葉である」(細谷,『世界』p.97)

  • また細谷氏は、「バックラッシュを担う人々の関心や心理」に紙幅をさいている。また、汐見稔幸氏(「生きやすい、働きやすい社会をつくる、ということ」)も、「議論を、批判する側が設定した土俵で行いすぎるのもどうだろうか」(汐見、p.87)といいつつ、ご自身の議論は「深層の男女観」「屈折した社会心理」など男女の性差意識など心理的な内容が中心になっている。
  • これでは、保守派が「ジェンダーフリー論議で男女の「らしさ」「特性」などに設定した土俵に乗りすぎである。これは、細谷氏のジェンダーフリー概念が先に述べたような「能力、適性、役割」論であり、汐見氏の「男女共同参画」論が「これは男性、女性と決めつけないで、できるだけ議論し合意しあって行動していこうとする原理」というように、「性別特性論とその乗りこえ」に強くひっぱられているからだと思う。それを「『男女共同参画』という文言は、男女平等・同権への表現形と考えてよいと思う」(汐見、p.85)というのでは納得できない。
  • ちなみに、「特集ジェンダーフリーって何?」の説明では以下のように書かれている。

 「ジェンダー」とは生物学的な性差である「セックス」に対して、社会的、文化的に形成された性差、「男らしさ、女らしさ」の「らしさ」だ、と言っていいだろう。「らしさ」に距離をおいて、その過剰な縛りや圧迫から自由になろう、というのが「ジェンダーフリー」の思想である。今この「ジェンダーフリー=性差別意識の解消」が攻撃にさらされている(『世界』4月号、p.79)。

  • ジェンダーフリー」=「らしさからの自由」を主張している。すなわち、「ジェンダーフリー」=性差意識からの自由ということであろう。それならば、「らしさからの自由」=性差別意識の解消とまでは言えないのではないか。これが成り立つには、「性差意識からの自由」=性差別意識の解消ということになる。果たしてそこまで言えるだろうか。
  • ここまで書いてきて今日のブログは、『世界』の「ジェンダーフリー」特集批判(特に、男性論者の)になったことに気づいた。たらたら書きなぐってきたので、読みづらいと思う。改めて、まとめて女性学、行政、女性運動のサイトにアップしたいと思う。

*1:斉藤正美「『ウーマンリブとメディア』『リブと女性学』の断絶を再考する ーー一九七〇年秋朝日新聞都内版のリブ報道を起点として」『女性学年報』24号:1-20

*2:斉藤正美「敗戦直後の新聞にみる『女性参政』」『女性学』6号:94-115