細谷さんへ、あるいは性別特性論に焦点化する女性運動批判

  • 3月29日のブログで、『世界.』4月号特集「ジェンダーフリーって何?」の細谷論文について書いたコメントについて、昨日、細谷実さんご本人がコメントを書いてくださいました。細谷さん、ブログを探して書いてくださり、ありがとうございました。
  • コメントを拝読して、29日の文では意図がよく伝わらなかったなあという反省もあり、ここで「細谷さんへ」という文章にしてみました。最近の行政結託型の女性学・女性運動(90年代半ば以降、これが女性運動の主流となっています)が「性別特性論の乗りこえ」を大きな目標としているのは、女性運動の歴史からみれば、どうみても昔語りです。女性運動はとうの昔から、「性差別をなくすこと」をターゲットにしてきました。基本法、条例は、行政もその方向にシフトしたことの踏み絵だったのではないのですか。今になって、右派が出してきた「能力、適性、役割」の議論にのるのは、どうみても後退戦に巻き込まれて討ち死にする作戦です。それは願い下げです。そういうことを書きました。29日のところと合わせてお読みいただければと思います。本日の後半部に、細谷さんの直接のコメントと対比して私の意見を書かせていただきました。細谷さん以外の方のコメントも歓迎します。議論が深まるといいなあと願っています。ヨロシク。
  1. 私は、富山で女性運動と政策立案にかかわった立場から発信しています。倫理学者としての細谷氏が日本全体の政治状況(バックラッシュ)の分析をされているのとは自ずから視点も見えてくるものも異なるのだろうと思います。
  2. おそらく私が『世界』の細谷論文に興味が持てないのは、そうした日本全体をマクロに見渡している視点だと思います。「バックラッシュが登場した社会・経済的背景とその心理分析」では、具体的な場面で、女性問題に対して反論にあったりバッシングにあったりした時に個々に方針をたてたり、対策を考えたりするのに即役に立つものではないと思うからです。「あちこちで出てきているバックラッシュ、どーすんのよ?」の答えとしては、主流女性学・女性運動では総論ばかり語られ, 「あちこち」と個別に考えることがないことが問題だと思っています。そのいい例が桑名市の条例への対応です。このブログでも小川まみさんや寺町みどりさんが議論されていますが、橋本ヒロ子さんが『We』で桑名市条例について「廃止された」などと大迷惑な間違いを書いておられます。細谷さんの論考もやはりそうした「解決につながっていかない」、いやむしろ「解決に逆行する」対応例であると考えます。そう考える理由を以下で書きます。
  3. 細谷論文が「女性問題の解決に逆行する」理由を2つ述べます。第一は、細谷さんが、「従来の『男女は異なれども平等』という考え方を抜け出した政府の男女共同参画社会推進政策」と主張されているのは、大問題と思っています。女性運動は、ずっと以前から制度を変えようと悪戦苦闘してきています。いまさら「『男女特性論』を抜け出したこと」や「能力、適性、役割」の議論で女性運動を数十年後ろにねじを巻き直されるのは、大迷惑です。男女共同参画社会基本法制定の時の議論を思い起こしてください。当時、効果の上がらない「意識啓発」政策ばかりやっていた行政がようやく重い腰を上げて「制度の改革へ」と根本転換をはかった、と語られました。基本法の第三条「男女が性別による差別的取扱を受けないこと」や、積極的格差是正策(ポジティブアクション)は、行政の施策として差別是正策へと歩を進めたことを示すものだと言われました。それなのに細谷さんの見方は、基本法や条例への動きによって、行政が「制度の改革」路線に舵を切ったことまでをなかったことにする、いわば「性差別撤廃施策なかった」論です。せっかく獲得した性差別撤廃のための施策を細谷さんの解釈によってないことにされるのは、「女性運動への逆行」です。第二の理由は、「今回のバックラッシュが狙い撃ちしてきた」のが「能力、適性、役割」であるからそれについて書いたのだという点です。バックラッシュ側は、あえて「性差別の撤廃」を「男女の特性」という意識レベルにずらし弱体化をねらっているのではありませんか。相手の作戦に素直に乗って議論しているうちに、相手の土俵に私たちまで乗ってしまってはどうなるのですか。先に述べたように、女性問題解決ですが、一向に男女差別が改まらず、女性議員も増えず、賃金格差も縮まらないなど施策が行き詰まったために、「システムを変えなければ」という女性運動の声が、基本法や条例制定に向かったのではなかったでしょうか。どうしてこのような苦難に富む女性運動の歴史がかくもはやく忘れ去られてしまうのでしょうか、細谷さん。
  4. これらの主張は、私が80年代当初から女性運動に関わり、90年代には、居住地の自治体の男女平等推進施策の策定に関わった経験に基づくものです。男女平等条例の策定過程では、私たちは「性差意識」や「性別特性」からの打破などを焦点化することをできるだけ避け、「性差別をなくす」という点に焦点化しました。その結果、各地で起きている「ジェンダーフリー」や「男らしさ・女らしさ」などをめぐる型どおりのバッシングは起きませんでした。そうした自らの体験から細谷さんの作戦に異議を申し立てているのです。決して、机上の空論ではありません。

以下では、細谷さんが書き込まれたコメントに添って私の考えを書いていきます。

細谷 『1、蜷川真夫さんのことは、うかつにも存じ上げませんでした。彼の果たした役割を政党に評価したいという話は分かります。しかし、「プロデュース」ということで、雑誌や新聞をあげてのフジサンケイの今回の動きに比肩していいものか。

斉藤:「雑誌や新聞をあげてのフジサンケイの動き」がいかに大きいか、深刻かということをわざわざ
ウーマンリブ」を対置してとりあげるのは逆効果ではないでしょうか。これだけ重大な動きになって
いる、大変だということは、「バックラッシュ」というわけのわからない言葉の使用とともに、この問
題に詳しくない多くの人たちに「黒船が来た」という萎縮効果をも与えるのではないかと思い、懸念し
ています。
 「リブの登場」だって、蜷川さんだけではなく、系列も媒体もさまざまな人たちが「プロデュース」
しました。もちろんそれに対する批判や反論、誹謗中傷も多数ありました。
 女性運動の歴史を振り返ると、いつだって反論はありました。女性運動を語る側に、今回のように
「敵を大きく扱う」傾向が時々見られることを憂慮しています。今回の「バックラッシュ」論でも、
そのような悪しき傾向を感じるので一言申しました。サンケイなど自らを攻撃する側を、「強くて大変
だ」という戦略はどうなのかなと思うわけです。


細谷2、「能力、適性、役割」論を中心に書いたのは、今回のバックラッシュが狙い撃ちしてきたのが、性教育と並んで、そうした分野であるからです。女性運動にとって、そういう「能力、適性、役割」論よりも、重要な分野があるという話はありうるでしょう。しかし、目下攻撃されている場所に手を拱いていていいとは思いません。それは、先の話と二者択一というものでもないでしょう。

斉藤: これについては、上に述べた通りです。


細谷3、北田さんの論考を引いたのは、当時入手しやすいもので、バックラッシュ派についての分析を行った数少ないものだったからです。もちろん東大関係か否かはまったく顧慮の外でした。彼に会ったことも見たこともなかったです。


 斉藤:北田さんのご講義を聴いているようなご論考よりも、細谷さんもご執筆されている『We』誌
の「バックラッシュを打ち負かせ!」特集での三井マリ子さんの「男女平等を嫌う反動勢力
の実像」(『We』2004年11月号)や、山口智美さんの「ジェンダーフリーをめぐる混乱の
根源(1)(2)」(『We』2004年11月号、2005年1月号)のほうがはるかに具体的で役に立つもの
です。
 細谷さんは、バッシング派が「『邪悪な人々』を設定して、憎悪の火を掻き立てて行くのは極めて危険
な傾向である」と賢くまとめておられます。一方、三井さんは、「どんな手が打てるだろうか」とし「パ
ンフレットなどを読むと相手のねらいがわかる」、「自分の信頼できる議員にバックアッシュの実態を知
らせよう」、などと「バックラッシュに講義する運動」に参加するよう勧めています。
 また、山口さんは、「保守派がカタカナ語や日常使われない用語(例「男女共同参画」)を叩く一方、
表立って『男女平等』や『性差別撤廃』という言葉を批判しないのは、特筆すべきだろう。『ジェンダー
フリー』を『男女平等』とは異なるものだという妙な理屈をこねて、『ジェンダー・フリー』攻撃をしてい
るのだ(新田均「日本の息吹」2002年10月号)。おそらく行政や学者は、『よくわからない言葉』を新し
く使うことで男女平等への反発を軽減しようとして『ジェンダー・フリー』を使い出したと思われるが、そ
れは失敗だったのではないか」(「ジェンダーフリーをめぐる混乱の根源(2)『We』2005年1月号」と
書いています。これも、女性運動の戦略論として欠くことのできない視点です(山口さんの議論はこのブ
ログから「ジェンダーフリー概念からみる女性運動・行政・女性学の関係サイトへ飛べば読めますし、三
井さんの議論は三井さんのサイトに載っています」。
 細谷さんや北田さんのように総論的で概論的な説明は、お勉強好きの方には好まれるかもしれませんが、
役に立たなかったり、逆行していたりでホント困るなあと思っています。

細谷3、拙論の狙いは、あれよあれよと言う間に広がってきたバックラッシュ派の輪郭を示すことにあります。品もなく固有名詞を列挙したのもそのためです。それ以上を要求されても、もともと木によって魚を求むの類でしょう。

 斉藤:相手の土俵にのった輪郭を示してくださってもねえ、と困惑しています。

細谷4、『世界』の特集が気の抜けたビールという感想をお持ちになるのも分からないでもありません。しかし、その特集をネタに自分の関心だけから自分の主張を書き連ねているだけのような気がします。「で、あちこちで出てきているバックラッシュ、どーすんのよ?」』

 斉藤:「気の抜けた・・」は私の記述ではないので、その点についてはコメントしません。
「自分の関心だけから自分の主張を書き連ねているだけ」という部分については、ブログというWEB日記は、
文字により「自分の主張を書き連ねているだけ」にすぎないものですが、「主張を書いただけ」ということで
ケチをつけられる筋合いもないと信じています。
 細谷さんの論考が女性運動を後退させている、それがまかり通ってしまうのは困る、という必死の思いから
書いたものです。意図を誤解されてもと思い、上記で私が女性運動に関わってきた体験を踏まえて、現状に対
して心配のあまり書いたということも書き添えました。

〔追記〕この原稿を「ジェンダー概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」サイトにアップしました〔http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/hosoya.htm〕。それに際して、タイトルを若干変更し、「細谷さんへ、あるいは性別特性論に焦点化する女性運動批判」としました。