水島朝穂編著『改憲論を診る』法律文化社(2000円)ISBN:4589028344(2005年5月3日発行)を読んで

憲法を変えることに賛成ですか? 反対ですか?」という問いかけ自体が間違っている。水島は本書の序「いま、何が変えられようとしているのか」でそう断言している。憲法とは第一義的に、「国家権力を拘束し、制限する規範である」というように、権力暴走への大きな歯止めなのである。よって、改憲論をするなら、「何をどのように変えるのか」ということがまず提示され、かつ憲法を変えなければ解決しないこれこれの事情があるということが示されるなければおかしいと説く。まったくもって正論である。その正論がその前提もろともになし崩しに崩されつつある。どうしてなのだろう。国民は憲法の成り立ちやその存在意義をも振り返ることなく、改憲の流れに押されているのだろうか。この点が私にはよくわからない。


水島は、フジテレビで一般市民が議論する番組に参加しそこで改憲派の論客である小林節氏と議論しこの憲法の大前提については意見が一致したと述べる。また、そこに参加した一般市民も最終的に、改憲賛成、反対という意見とは別に、「憲法改正を容易にするための改正手続きの改正には全員一致で反対」という結論に達したという。


憲法については、憲法存在の意味についての議論を十分にする必要があると思っていたが、本書はこの点で心強い。ドイツでは、ナチスドイツが国会放火事件(自作自演説すらあるそうだ)の後、憲法で認められた人身の自由など基本的人権の効力が停止され、その後、「全権委任法」を通過させ、権力への歯止めが全面的に崩れたそうである。その結果は、ナチスの蛮行として私たちが知る通りである。

やはり、憲法は歯止めとして厳然と存在していなければならない。本書は、改めてそのことを私たちに強く訴えかけている。「護憲」vs「改憲」という議論のテーブル自体、間違っているんじゃないだろうか。憲法を護る、「護憲」ではなく、憲法の認識論的検討こそが重要ではないかという思いを強めた。


なお、このような憲法の立場性から、当然のことではあるが、自民党から出ている家族のあり方について憲法に書き込んで国家が国民に説教するような方向は、間違っていると改憲論者である小林氏も考えていることにも触れられていた。自民党憲法24条見直しに対して「なぜ男女平等がねらわれるのか」といった議論は相手の議論にのって、相手を利する議論のように見えてしまう。それより、私たちは憲法存在の意味から、国民への啓発的条項がいかにアヤシイかを問うていけばよいのではないだろうか。


その意味で、彼谷環「政党の改憲論を診る」において挙げられている、「美しい日本語」を用いるべきだ、とか「愛国心」をもつことなどを憲法に書き込もうという自民党改憲論がいかに、憲法の位置づけをずらすものかわかろう。本当にばかばかしい議論である。お話にならない。それらの議論を引っ張っている安倍晋三憲法論ときたら「溌剌とした気分を醸成していくために」憲法を変えようという主張だそうだ。これもあまりに憲法の意味をしらなさすぎる。私たちはこういう市民を愚弄する政治家の議論に騙されないようにしたい。


同じく彼谷さんの「メディアの改憲論を診る」では、憲法改正試案を次々と打ち出して世論をリードしてきた感がある読売新聞についてメディアの公共性の論点から論じている。読売が大きく踏み外し世論を揺さぶり、朝日がそれを少し戻した議論に落ち着かせる。極論すれば、政治とメディアの関係では、いつか見た光景のような気がしないでもない。第二次世界大戦で、そうした政治権力の歯止めになるどころか、政治権力への積極的関与を反省したのではなかったかと思ったが、やはり天皇の責任以下、責任が正当に問われてこなかったあの時代をひきずったまま、また同じことをしようとしているのではないかと思えてくる。


そんな中で気概をもって言論を張っている新聞として、『沖縄タイムズ』『琉球新報』『北海道新聞』『西日本新聞』『神奈川新聞』の名が上がっていた。それをみてなるほどという思いがした。日本の周縁部で政治権力からはしばしば大きな犠牲を強いられてきた人々の地域である。また私がこれまでも良心的な取り組みをしていると注目してきた言論の社ばかりであった。


「護憲」を旗頭にせず、「改憲論」をクリティカルに照射することに専心したこの本のスタンスに敬意を表したいと思った。この本のスタンスであちこちから吹き出している改憲論のおかしさを喝破しなくてはと思う。その意味でぜひご一読下さい。そして、憲法とはなんぞや、という議論を大きくしていきたいと思いました。
【追記】「水島」「彼谷さん」と区別したのには他意はありません。単に「彼谷さん」を存じていたための親しみを込めたさんづけです。