行政の保守性を議論しない「ジェンダーフリー」論争

「『ニート』って言うな!」って本がでたらしい。新刊案内によると、「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」「定義自体が妥当なものなのか? 大衆の憎悪のメカニズムと教育的指導に潜む危険な欲望とは? ニート論が覆い隠す真の問題を明らかにする」とある。
これを「ジェンダーフリー」にあてはめて考えてみると、これがなんだか、問題の核心をぴったり言い当てているのだ。
1)「ジェンダーフリー」の定義自体が妥当なものなのか?(これがあやしいことは、ジェンダー・フリー)をめぐる混乱の根源(1)& (2) 山口論文をみてくださいhttp://homepage.mac.com/tomomiyg/gfree1.htm
2)大衆の憎悪の欲望のメカニズムと教育的指導に潜む危険な欲望とは? 「大衆の憎悪の欲望のメカニズム」についてはよくわからないけど、「教育的指導に潜む危険な欲望」というのはぴったりあてはまる。「ジェンダーフリー」は、市民に対する裁量の権限と税金という資源をもつ「行政による」男女共同参画条例や共同参画の行動プランによって推し進められてきたからだ。これを「意識の押しつけ」と受けとめる人たちもいて反発を招いていることはよく知られている。(よって、ここでは論じない)
3)「ジェンダーフリー論が覆い隠す真の問題」とは、行政の保守性であるというのがわたしの結論である。
以下、これまであまり論じられたことのない3)「ジェンダーフリー論が覆い隠す行政の保守性」という点についてわたしの意見を述べていきたい。
行政が「ジェンダーフリー」政策という「意識啓発」でお茶を濁していたのは、行政の横並びと前例主義の表れである。つまりは、お役所の保守性に尽きるのだ。
確かに、女性問題には意識の問題も大きく関わっている。ただ、これまでの女性差別問題への行政の取り組みが意識啓発だけで手をこまねいていたことには大いに疑問を感じている。
これは、1990年代初頭から行政の女性問題施策に、時には近くから、時には距離をおいて15年ほど接してきた経験を踏まえて考えていることだ。決して、「意識啓発」絶対ダメと言いたいわけでも、行政批判そのものが目的でもない。この議論の目的は、行政施策の方向性をちと再考すべきではないか、そのためにこの問題に関心ある人を増やしたいということにある。啓発意外の施策をという意見は、これまで地元自治体へは口を酸っぱくなるほど言ってきたが、未だに啓発以外のことにはほとんど予算がつかない状況にあるのだ。
男女共同参画に関する調査・公表資料(一覧) をみてもらいたい。http://www.gender.go.jp/chihou_kokyo/pref_shiryou.html
これをみると各自治体のやる気度がみえてくる。
 大半は「県民の意識調査」をやっている。意識調査をやるということは啓発事業(ちらしの作成、講座の開催など)を展開するといっているようなものだ。行政の女性問題への取り組みとしては、意識調査をして「男性優遇」や「女性の差別され感」が大きいことをデータとして示し(富山県の調査では「男性が優遇されている」という人は約7割である)、だから「意識を変えよう」という意識啓発策をとることであった。これだと結局やることが決まっていて楽ちんである。
調査を外部事業者にやらせて、まとめてもらえばお手軽である。分析は名のある学者にこれも外注だ。そして意識調査を受けて、女性センター啓発講座をやることで一丁上がりだ。
これが男女共同参画として各地の自治体でやられていることなのではなかろうか。
しかし、仙台市のように「事業所実態調査」や「自営業者の生活・意識調査」などを独自にやっているところもある。こういう事業所の実態や自営業者の問題などはしっかり取り組む必要がある。仙台市の調査では。市への要望という項目まであり、担当者のやる気がみえてくる。
だいたい調査は次なる施策の根拠とするために行うものだ。
意識啓発策がなぜまずいのか? 
これは、行政が是正するために啓発講座やチラシ、ポスターの作成、男女共同参画週間の設置などでこれだけ市民に働きかけたけど、市民は「意識が低いの仕方ありません」という言い訳がたつことだ。お役所が新たな施策を打ち出さなくてすむのだ。悪いのは「市民の意識の低さ」という説明が成り立つから。
しかし、女性の雇用のうち非正規雇用過半数を超え、若い男性層までこの差別的働かせ方に巻き込んでしまっている。「ニート」って言わないで、「ジェンダーフリー」って言わないで、不公正な社会システムの改革へと一歩を踏み出してほしい。そのためには、まずは「意識調査」ではなく、働き方の実態調査から始める必要がある。
ジェンダーフリー」論争の最大の問題は、行政の保守性が論じられていないことだ。