フェミニズムは分裂含みの「連帯」をめざしている
id:toledさんがhttp://d.hatena.ne.jp/toled/20060125でジェンダー研究について鋭いつっこみを入れられている。そのことで私のところにもトラックバックしていただいた。私もid:toledさんとなんだかよく似た違和感を感じていた。その思いを以下につづってみたい。
お茶大でのジュディス・バトラー講演会に900名以上が集まったそうだ。講演会当日があのひどい雨でなかったら1,000名は越しただろうとも聞いた。しかし、当のバトラーは、そうした一極集中的なフェミニズムこそ批判し、フェミニズムの「亀裂や分裂や断片化」をオススメしている論者ではなかっただろうか。
「えっ、近くにいたのならどうして来なかったの?」と言われた。
「みんなが参加するのが当然」のようなこの盛り上がりに、(わたしも隅の方で関わっている)女性学がすっごく矛盾を抱え込んでしまったように感じてしまった。
「ジェンダー・フリー」教育について主流の女性学に内在する課題点を指摘すると、そのような内部批判が「敵を利する」行為であり、一致団結してバックラッシュ派に対抗せねば大変なことになるという声が返ってくる。「大きなひとつの流れをつくることが大事」「その発言が誰を利することになるのか」といった反応である。
さらに、女性学会が、保守反動に対抗して、「ジェンダー」や「ジェンダー・フリー」についての「Q&A」(統一見解)を出したり、積極的に定義をまとめようとする場面にしばしば遭遇する今日である。
しかし、「一致団結」を誘う言説こそ、女の中の権力関係を押しつぶしてしまう危険性をもつのではないか。そのことを強く主張するバトラーに女性学者が熱い視線を送ることと、女性学者の昨今の現状との矛盾をどう考えたらいいのだろうか。大きなとまどいを感じている。
バトラーは、どのような困難があろうとも「団結こそが政治行動の前提条件」とする考えこそ、内部での権力関係をみずに同意を迫るリベラル・フェミニズムに逆戻りすることであり、フェミニズムの問題解決につながらないと、次のように指摘している。
「おそらくそもそも連帯というのは、その内部の矛盾を認め、それはそのままにしながら政治行動をとるはずのものではないか。またおそらく対話による理解が引き受けなければならない事柄のひとつは、相違や亀裂や分裂や断片化を、しばしば苦痛をともなう民主化のプロセスのひとつとして受け入れることではないか。(中略)
対話の可能性を条件付け、制限づけている権力関係はどのようなものかを、まずはじめに問われなければならない。
さもなければ、対話モデルは、語っている行為者がみな同じ権力位置にいて、何が『同意』で、何が『統一』かについて全員が同じ前提で話をし、また実際に、『同意』や『統一』こそが達成すべき目標だと仮定するようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。」( ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』42頁)
「『統一』は、有効な政治行動に必要なものなのか。統一という目標に早まって固執することこそ、戦列のあいだに、さらにひどい分裂をおこす原因とならないか。分裂していると思われている形態の方が、女というカテゴリーの『統一』を前提とせず、それを希求しないがゆえに、連帯行動を促進するのではないか。「統一」というのは、アイデンティティの次元で団結という排他的な違反を打ち立ててしまうので、その結果、アイデンティティの境界を攪乱したり、その攪乱をはっきりとした政治目標とする一連の行動の可能性を、組織的に排除してしまうのではないか。」(同上書、43頁)
現在のフェミニズムの課題は、保守反動の地理的、政治的、社会的勢力の広がりを真摯に危ぶむ余り「大きなひとつの流れ」を志向し、その結果として「ジェンダー」や「ジェンダー・フリー」の定義をはじめとするさまざまな課題解決において、「相違や亀裂や分裂や断片化が少なすぎる」状況に陥っていることにあるのではないか。
フェミニズム運動やフェミニズム研究はもっと多様であっていいはずだ。それがなくなりつつあるような事態こそ、保守反動に対抗するに当たっての最大の課題ではないのか。バトラーを信じているわけではないけれど、「分裂」や「相違」を怖れずものを言うことがフェミニズムのためになるっていうのは可能性ありそうなので一票入れたいゾ。
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【付け加えると】id:toledさんがフェミニスト認識論についての議論をされている。なお、id:toledさんがフェミニスト認識論についての議論をされている。http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1 など。
女性学ではめったにみないフェミニストの知の理論について、女性学系ではない(?)と自称されている方のサイトでめぐりあえることにびっくりしつつ感動した。このようなフェミニズム理論の源流にもいろいろあって、それによって思考の枠組みだってこんなに違ってくるという議論、日本語環境ではほとんどなされていないですよね。そこに今の「ジェンダー」にかんする議論のしづらさの一端があったりして・・・・いずれにしろ、オススメです。しっかり読ませてもらいます。