竹本辰男さんの死に思う富山の反骨精神

discour2006-02-14

きのうは立山連峰がまぶしく輝く美しい日だった。車を運転して富山大に向かう間、昨日なくなった竹本辰男さんのことを思い浮かべていた。80年代半ばに『医薬品スキャンダル』や『チバガイギーの内幕』など薬害関係の翻訳書を出していた時、竹本さんを中心とする勉強会に声をかけてもらった(私はこの富山の反骨住民グループに紅一点で加えてもらったらしい)。


竹本さんは、戦後富山での反骨精神に満ちた運動のシンボル的存在で、いつも竹本さんを慕って集まってくる人たちに囲まれていた。その運動については詳しいことはわたしは知らないのだが、富山県の新産業都市政策に対してアンチな運動であったようだ。公害が次々と起こり、富山湾が汚染されていく最中の反行政、反体制的な運動であったようだ。詳しくは、北日本新聞社日本新聞協会賞をとったとかいう『幻の繁栄?新産都市二十年の決算』勁草書房をご覧いただきたい。参加メンバーは幅広く、名前を出せない立場の企業人もしっかり参加されていた。新聞記者さんや大学人も仲間としてサポートされており幅広いネットワークができていた。そして、このグループはいまだに年に一回忘年会を開いている。


竹本さんは、宇井純さんと日本ゼオン高岡工場でともに働いた仲間であった。宇井純さんは竹本さんとの相互作用で今の宇井純になったのかもしれない。その宇井さんと竹本さんの久方ぶりのそして最後の再会の場に私は偶然同席した。「地球助手ノスタルギア。」による「地球助手(すけて)賞」の授賞式がウイングウイング高岡で行われた時のことだった。この日のことは右に。http://d.hatena.ne.jp/discour/20041031
これまた反骨精神でがんばってきたトナミ運輸社員串岡弘昭さんへの林姉妹の心温まるお祝いの席でのことだった。私はたまたまその日、竹本さんの隣に座った。お元気そうだった。それがお会いした最後となった。
いい時にお会いできたと今は振り返って思う。


住民運動のリーダーとして闘っている時、不審火にあって家を失っているというのにいつあっても明るくいい方だった。海に出て魚を捕る楽しみがあったせいなのかもしれない。春にわかめをとってもってきてくださったことがあった。
串岡さんのお祝いの会で、これまでのことをまとめたい、あなた暇ないかととわれたのに、いっぱいいっぱいだなんて言ってしまった。寂しかっただろうなと申し訳なく思う。振り返ると、行政や企業を相手に熾烈な闘いを挑んでいた時代であったと隔世の感を深める。


ちなみに、北日本新聞社の気鋭の批判精神強い面々を知ったのもこのグループでのことであった。その方々とは後に、富山の市民グループで新聞の性差別表現批判をした際に対決する立場になってしまったが、、。北日本新聞社も、『幻の繁栄?新産都市二十年の決算』をまとめた時代からどんどん時代は変わり、地方紙の置かれている政治状況や行政との関係、新聞社の方針が変わっていった。前小杉町長の土井由三さんも勉強会や飲み会で見掛けるお一人であったが、政治家に転出された。会社の方針がだんだん変わっていく中で働く記者、編集者のみなさんにはそれはまた重い現実であったろうと想像するにあまりある。

富山は保守的と一言で括られるが、串岡さんだけではなく、自分で考え行動する市民の動きが連綿として続いているのである。あまり知られていないのはそれが表に出ていないだけである。竹本さんをgoogleしても住民運動の歩みはヒットしない。一枚岩ではない多様な歴史を語っていきたいと思う。