ジェンダーって悪いこと?

3月2日のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/discour/20060302は、本文よりコメント欄が充実しているのでそっちをぜひご堪能いただきたいと思います。そのなかで活躍中のあっぷあっぷさんが言われたことに気になることがありました。女性センターなどでやっていることにのれないのは、「『それは作られた女性観だ、もっと違った見方があっていい』みたいな、どことなく被害者意識的なハナシになりがちなのが、私にしてはとってもキュウクツ」というお話です。
以下、コメント欄に書き込んだことと重なりますが、重要な点と思うので再度エントリーとして書いておきたいと思います。

確かにこれまでのメディア・リテラシーの多くは、みなさ〜ん、「女だから、男だから」という、とらわれたものの考え方や価値観(ジェンダー)にとらわれていませんか。そうした考え方はメディアから少なからず影響をうけているんです。講座ではそのからくりに気づき、メディアにもっと主体的に向き合うように学びましょう、っていうものでした。

わたしもかつてはそういう講座をやっていました。でもある時、はたと気づいたのです。これでは他の人の意識や考え方が間違っている、自分の意識のほうがいいと押しつけていることになる。 それに気づいてからのメディア・リテラシーでは、意識を糾弾するパターンに陥らないことに最大限の配慮をしています(いるつもりです)。


「とらわれのジェンダー」に気づこうという講座をやると一部の根強い愛好者からは支持がいただけるんですよ、でも反発も受けます。今は、どんなジェンダー観だっていいではないかと思っています。だから、最近のメディア・リテラシーで力を入れているのは、ジェンダーの歴史的変化ということです。またそれと関わっている社会、経済的な要素とのつながりです。

戦後復興期や高度成長期では日本を産業社会として復興させることが至上命題だったので、産業復興のために身を挺して働く男と、子どもを産み育てることで日本国家の復興を支える女が理想像とされたこと、現在のように産業社会が転換を迎え情報社会に変わっているので、理想像だって個人化し、多様化せざるを得ないとかいったことです(今考えると、先般の講座当日はこの点の説明が不十分だったなあと汗・汗・・・)


フェミニズムや行政で「ジェダー・チェック」や「メディア・リテラシー」などの啓発での「ジェンダー」って悪いことのように想定されていますよね。「ジェンダーにとらわれない」とか「ジェンダーに縛られない」ってよく言いますが、「囚われない」「縛られない」といういい方だと、「囚われる」のは悪いこと、まずいものが対象と受けとめられます。でも、ジェンダーには自分らしさ、自分のジェンダーアイデンティティも含まれるのだから、ジェンダー=悪いもの、とは言えないはずです。

ともかく、いろんな自分らしさがあるんだから、どんな女らしさや男らしさだっていいわけです。一つの価値を押しつけるのではなく、雑誌とのつきあい方を通して十人十色の自分らしさが他の人に伝わることがメディア講座のおもしろさだと今は考えています。

わたしもかつての残骸は残っていると思うのでこれからも注意を受けつつ変えていけたらなあと思っております。またお気づきの点はどしどしおっしゃっていただければと思っております。おつきあいのほどよろしくお願いします。