『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング』への意見
日本女性学会ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング――バックラッシュへの徹底反論』(明石書店)が届いた。この本については、http://d.hatena.ne.jp/discour/20060605のコメント欄、http://d.hatena.ne.jp/discour/20060509でもすでに触れている。)これまでの宣伝ぶりからは、この本が伊田広行氏著作の本みたいに見えていたが、著者が17名もおられるにもかかわらず、伊田氏のQ&A執筆項目は、34のQのうち7項を執筆と高い割合である。その上に、前文の「ジェンダーについての整理」、ならびに後ろにつけられた「バックラッシュの背景をさぐる」「ジェンダー関連用語の基本的意味」ならびに「政府の『ジェンダー』および『ジェンダーフリー』に対する見解」といった解説文、ならびに関連年表などの資料がイダ氏の名で書かれているなど伊田氏執筆の割合が抜きんでている。
しかし、裏表紙の【編者紹介】をみると、「日本女性学会ジェンダー研究会」とある。だが、ジェンダー研究会の説明文は「日本女性学会」本体の説明だけが続く。1979年に「性差別をなくし、既成の学問体系をこえた女性学の確立をめざし」つくられたこと「現在、研究者、活動家、市民など約680名からなる」と会員数などを述べる。で肝心の編者である「ジェンダー研究会」については「2005年に本書作成に向けてつくられた」と一言あるだけだ。さらに執筆者17名が列挙されているが、幹事の名前が多く見られるようだ。一体、この本は女性学会とどういう関係にあるのだろうか。「ジェンダー研究会」が単なるわたし的な一研究会なのか、日本女性学会が組織として企画している幹事会企画研究会なのか、・・・・。この情報を見る限りでは、日本女性学会本と思って手に取る人は多いだろう。わたしは日本女性学会の会員なのだが、女性学会が刊行主体であるかのような形で以下に述べるような問題含みの本を出されるのはどうかと思う。
この本は、男女平等、ジェンダー、性教育、男女共同参画などの思想や政策に対する組織的、意図的な攻撃が起こり、こうした思想や施策への誤解や反発が起きている状況を憂慮し、「多くの人に男女共同参画・フェミニスト側の意見を正しく知ってもらい、バックラッシュ派のうそやごまかしにだまされず、自分の思いをみんなが堂々と口に出せるような社会になってほしいという願いから」(p.3)刊行された1冊である。わたしもバックラッシュ派と言われる方たちの主張には、事実無根の物語や、ためにする批判が目立つのでこのように堂々とした対処には敬意を表したいと思う。特に、「バックラッシュを越えて」の内藤和美氏による条例の意義や佐藤文香氏による税金の使われ方など施策や制度面での説明はきわめて重要であると思う。もっと紙面を割いて論じてもらったらよいのにと思う。しかし、見過ごせない箇所も少なくなかった。以下、順に述べる。
- バックラッシュ派の主張をデフォルトにして、それに対して答え(Q&A)を書く方式は問題だ。 相手の土俵で相撲をとっているようなものだ。自分たちの主張が後ろに霞んでしまってこれでは伝えたいことも伝わらない。単に言い訳をしているように見える構造になっている。わたしはこの点が一番まずいと思う。「鯉のぼりやひな祭りなどの日本のよき伝統を廃止するのですか」や「トイレ・風呂。更衣室の男女共用化を進めているって本当ですか?」、「女性は子どもを産めない体だと、無駄で価値がないのですか?」といった問題について答えているが、「いいえそうではありません」という答えを聞くことにどれだけ意味があるだろうか。いくらその答えが真っ当であったにしろ、問題の立て方を踏襲するということは、相手の認識枠組みをそのまま引き受けることになる。こうやって、相手の術中にはまって、ジェンダーの問題とは、「ひなまつりの廃止問題」「トイレの共用問題」など問題なのだと再生産している。この本自体がそういう言説効果を生んでいるのだ。
- 「ジェンダー」や「男女共同参画」の説明が混乱している。 特に、「男女共同参画」と「男女平等」概念に混乱が見られる。具体的に述べると、「ジェンダー平等」は、「(性別特性論の上での)男女平等ではなく、性的マイノリティも含むという意味で、男女平等を発展させた概念」(p.174)と述べる。その一方で、「英語ではgender equalである『男女共同参画』の意味として、1996年の男女共同参画審議会では『男女共同参画は真の男女平等を目指すものである』」と答申しています」(p.174)と書く。答申を無批判に書き写したこの表現では、「男女平等」がもっとも進んだ理念とされている。この答申の説明は、先に伊田氏が述べた「男女平等」より「ジェンダー平等」をという主張と相反するではないか。読者は「ジェンダー平等」は、「男女平等」より優れた概念だという伊田氏の説明を受けて理解するとしよう。が、その次にそれとまったく逆に「ジェンダー平等」より「男女平等」のほうが進んだ概念だという答申の文章を読まされるわけだ。 政府への答申では、「男女共同参画」ではなく「男女平等」こそ真にめざす概念と述べられているのだ。「男女共同参画」は、「男女平等」を目指すがいまだ到達できていない遅れた概念ということになる*1これは、本書で伊田氏や船橋氏が述べてきた内容と相反するではないか。 伊田、船橋氏は「男女平等」では不十分だから「ジェンダー平等」にすると言っていたのではなかったのか。その「ジェンダー平等=男女共同参画」が、「男女平等」を目指す途中段階にあるというのだ。これでは読者は、これまでの説明と矛盾するのでどう理解していいか当惑する。船橋氏や伊田氏の説明と、政府の説明が不一致なのである。伊田氏や女性学会は、「男女平等」と「ジェンダー平等」、それに「男女共同参画」の関係をどう考えているのか。これでは説明になっていない。読者は混乱するだけではないか。 これは、おそらく「男女平等」を遅れたものと批判する一方、同じく「男女」を冠する「男女共同参画」を進んだ、よいものとしてきた、本書での伊田氏や船橋氏のような発想自体に無理があるのだろう。その際、「男女共同参画」を「男女平等」より優れたものとするために格好の緩衝剤となってきたのが「ジェンダー」だったように思う。「ジェンダー平等」がそのいい例である。「ジェンダー」はカタカナであり、意味が定まらないゆえにマジックタームとして利用価値があったのだろう。矛盾をカムフラージュする効果があったと思われる。 そのジェンダー概念にも問題がある。前に伊田氏の『続・はじめて学ぶジェンダー論』についてhttp://d.hatena.ne.jp/discour/20060422で概念が矛盾含みだと書いたが、それがあてはまる。「ジェンダーは・・・個人の自由な発展を阻害する性のあり方、つまり『女らしさ、男らしさ』自体を意味します。そうしたジェンダーは、『そこから離脱していったほうがいいもの』」(P.17)ととのみとらえていることだ。そして「ジェンダー概念を豊かにとらえたほうがいい」(P.16)と主張するものの、その「ジェンダー」のなかに主体的に選び取った「ジェンダー・アイデンティティ」は含まれないようだ。「ある意味、『よくないもの』といった価値的な面をもったものといえますし、だからこそ、そうしたジェンダーの囚われから自由になるというジェンダーフリーといういい方があるのです」(P.17)というように、「ジェンダー」なんか捨て去るものとみなしている。「ジェンダー=悪者」説だ。悪いものだとしたらよくなるように作りあげるジェンダー・アイデンティティがなくていいのだろうか。例えば、「女」であることの規範性に気づき、それを変えていくなどの主体的な、変革的なアイデンティティを排除した「ジェンダー」概念では困るだろう。これだと、女が「ひなまつり」を祝ったり、「国際女性デー」を楽しんだりできないことにならないか。多くの女性を排除し、女性が楽しめないようなジェンダー概念なら必要ない。それを難しく説明するのは何のためか。 「ジェンダー平等」や「男女共同参画」が「男女平等」より進んだものという考えは、一体いつ頃、誰が導入したのだろうか。また、伊田、船橋氏らは自らの考えと明らかに異なる97年の答申について、批判をして来たのだろうか。本書ではこの点が読みとれない。 現状では、女性問題、性にかかわる問題の解決という本題が忘れられ、概念整理にばかり関心が向いている。「ジェンダー・バイアス」「ジェンダー・センシティブ」「ジェンダー平等」「ジェンダーの視点」など類似語が増え、混乱はひどくなる一方である。この本がこのような状況を解決するために出されたのであろうが、逆に混乱に拍車をかけるような内容になっているとすれば、どうかと思う。
- 女性運動の歴史を欠落させている。 木村涼子氏のQ8の男女混合名簿についてがそうだ。男女混合名簿について、木村氏は、なんとそれが「ジェンダーフリー」教育の一環として始まったという間違ったことを書いている。「男女別・男子優先名簿は、学校の『隠れたカリキュラム』の一つとして問題にされ(Q6参照)、1990年代にはそれに代わるものとして男女混合名簿が全国に広がってきました」(p.55)とする。でQ6のページを繰ると、「Q6 ジェンダーフリー教育はどのような意義があったのですか? これまでの男女平等教育とどこが違うのですか?」とある。最初から「男女平等」と異なるものとして聞いているのだ。そして、回答では、「ジェンダーフリー教育」は1990年代に「性別にとらわれずに行動すること」として始まったもので、「男女平等*2教育」が「男女の特性論、性別役割分業を前提とした上での男女の平等を主張する立場を意味することもあり」(P.46)と、「男女平等教育」が男女の特性論や性別役割分業を前提としたものだと言っているのだ。つまり、「男女混合名簿」は、「性別特性論に基づいた男女平等教育」」では実現不可能だったが、「ジェンダーフリー教育」になったから初めて実現したのだと言いたいみたいなのだ。しかし、これは事実誤認だ。 『バックラッシュ!』キャンペーンサイトを見ているみなさんはご存じと思うが、長谷川美子さんがご自身教員として「男女平等教育として男女混合名簿運動」を進めてきたことを明らかにしている。http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060612/p1 長谷川さんたちが男女混合名簿運動について作成したパンフ『さよならボーイ・ファースト』を刊行したのは1990年。わたしたちが作成した「ジェンダー」関連事象をめぐる年表http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gendernenpyo.htmをみていただきたい。東京女性財団がジェンダーフリーを初めて使った1995年より5年も前だ。東京女性財団が姿も形もない時代だ。もとより「ジェンダーフリー」は存在しない。「男女平等」や「性差別」という概念で男女混合名簿を実現させた女性運動を見落としている。行政が持ち出した「ジェンダーフリー」がなくても、高校教員の方たちは現場で運動し勝ち取ってきているのだ。 さらに、大阪府堺市山口彩子市議(故人)が出席簿の差別性を議会で指摘したのは1989年だ。その翌年1990年堺市は全国初めて男女混合五十音順出席簿を小学校などに導入した。わたしは山口彩子市議が生きておられた時、お会いして混合名簿のことを伺ったことがあるが、彼女の口から「ジェンダーフリー」という言葉を聞いた覚えはない。新聞では、「男子用と女子用を別冊にした出席簿は男女平等教育上問題ないと思っていたが、検討の結果、男女混合で一冊にした方がよりベターという結論になった」と堺市教委学校指導課長唐谷氏(日経1990.4.25「さよなら”ボーイファースト”」)と行政担当者が「男女平等」に照らして混合名簿に変えたと明言している。男女混合名簿運動は、1980年代後半から90年代初めにかけて盛り上がった運動だったが、すでに忘れられかけているのは問題だ。 船橋邦子氏も木村氏と同じく「男女平等」が性別特性論を前提としているとみなす一人だ。びっくりすることに、「日本でも北京会議後、性別特性論を前提とする『男女平等』と区別するために『ジェンダー平等』という場合もでてきました」(P.169)と書くが、船橋氏は、「ジェンダーフリー」登場以前の山口彩子氏や長谷川美子氏による「性別特性論を乗り越えた」混合名簿運動をご存じないのだろうか。 船橋氏は「ジェンダーフリー」のところでも同様に女性運動史を踏まえない歴史認識を示す。「この言葉は性別特性論を不問にして男女平等は達成された、という認識が大半を占める日本の学校現場で、『性別特性論型の男女平等教育』と区別する必要性から現場で使われ、広まった言葉と言えるでしょう」(P.169) 船橋氏は、女性運動史や運動観について疑問のある記述が他にも見られる。例えば、「日本政府による男女平等政策や男女共同参画のための制度化は、国際的動向、世界の歴史的な潮流の中で推進されてきました」や「『ジェンダー』『ジェンダーフリー』という言葉の登場、それらの意味づけや解釈もまた、1975年以降の国際的な女性人権運動の広がりの中で、女性たちによって生まれてきました」(p.165)と日本の男女平等策が1975年以降の外圧によってもたらされたかのように書く。 日本でのフェミニズム(女性運動)史は、初期ウーマンリブは、メディアにからかわれて1970年代前半で早々に退場し、75年からの国連女性年以降は、それと連動した女性学が国際的な動向を背景に正統性を確保していったというのが一般的である。船橋氏の女性運動観は、リブ運動を無視し、75年以降の行政・女性学連合体を正統のフェミニズムとする主流フェミニズムの見方を踏襲している。国際的な「ジェンダー平等」を正当とし、日本の一部運動現場で進められてきた「男女平等」や「性差別撤廃」を掲げる運動を払拭すべきものとするのはこのような行政・女性学連合体的フェミニズム観によるものなのだろう。そのために本書は、ヤジや誹謗中傷で罵倒されながらも「性差別をなくす」、「男女平等」 という強い信念のもと歩を進めてきた初期の混合名簿運動の歴史を見落とすことになった。わたしたちが年表をHPにあげているのは女性運動の歴史を参照していただきたいからだ。ただでさえ、運動と学問の乖離が言われているのに運動の歴史を見落とした女性学本が刊行されたことは残念でならない。
- 意識啓発中心である。 本の構成をみると、「女らしさ/男らしさ」→「教育の場で」→「家族/恋愛/セクシュアリティ」へと進む。「女らしさ/男らしさ」の冒頭説明では、ここで取り扱うテーマは、「鯉のぼりやひなまつり」「トイレ、風呂、更衣室のあり方」「脳の男女差」「差別と区別の違い」などと書いている。それを「女らしさ/男らしさ」問題へとまとめるのはおかしい。編者が性差別問題を意識や心の問題としてとらえている。しかも、「この章では、男女共同参画/ジェンダーフリーについてよく聞かれる、基本的な問題を取り扱います」とあるのはもっとおかしい。これでは、女性学と右派とが単に意識啓発問題で感情的になって押し問答をしているだけだ。これらを基本的な問題とする認識自体が疑問である。
- 文章の主語が不明確で何を言いたいのかよくわからない。 例えば、細谷実氏が担当する、Q1「男女共同参画/ジェンダーフリーは、鯉のぼりやひな祭りなどの日本のよき伝統を廃止するのですか?」の回答は、こう始まる。「もちろん『よき伝統』を破壊するようなことはあってはなりません。しかし、残念ながらすべての伝統がよいものとは限りません。悪い伝統(悪習)や問題のある伝統は改革したり廃止したりしていくことが必要なことは、ジェンダーの問題に限らず、どの分野の伝統についてもいえることでしょう。また、この質問のポイントは、伝統一般をどうするかという話ではなく、鯉のぼりやひな祭りというそれぞれの個別の伝統をどう価値評価するかにあると考えられます」といったああでもない、こうでもないが続く。一体だれが廃止すると言っているのか。言っていないのか・・議論にもならない。自分の意見を明確にせず、だれの立場にも立たないフリをする、いわば客観主義を装っていることが災いしてこれでは議論が整理されるどころか、混乱を招くだけだ。女の子の立場にたって「ひな祭り」擁護をしてくれてもいいのに、ひな祭りでは「可愛らしく優雅なひな人形を大好きな男の子は、ひな祭りが女の子のお祭りであり、そこから排除されていることを恨めしく重い、傷ついています」と筆者の細谷実は書く。鯉のぼりについては、「禁止すれば多くの男の子だけではなく、多くの成人男性の心も傷つけられるでしょう」(p.25)と言うが、だれか鯉のぼりを禁止すると言ったのか。抽象的な、議論のための議論がああでもないこうでもないと延々と続いても読者の混迷は深まるばかりだ。
- 自らへの批判は匿名とし、批判をズラしたり、曲げたりと加工して不正確に持ち出す点が見られる。 Q16「ジェンダーフリーという用語は誤解されやすく危険なので使わないほうがいいという人がいますが、どうでしょうか?」である。この回答は伊田氏による。「ジェンダーフリーという概念が、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読に基づくものだということを根拠にして、この概念を使うべきでないという意見がありますが、それは外国人の誰かの使い方が正しいという権威主義的発想です。(中略)使いたい人が自分なりに定義して使えばいいのであって、他者が使うべきでないという筋合いのものではありません」(P.153)と書く。 これには山口智美さんやわたしの指摘が含まれていると思うので言っておかねばなるまい*3 。「誤読に基づくから使うべきではない」などと言っていない。そうではなくて、行政が学者といっしょに導入したが、その導入の際にも誤読などがあり、その後は転用する各人各様に意味が拡大されて収拾がつかなくなるなど混乱を招いているという理由だった。曲解しないでほしい。その他にも、「ジェンダーやジェンダーフリーの意味が曖昧だからバッシング派につけこまれているとみる人もいます」(P.154)や、「行政から民間に押しつけられた骨抜きの概念」「意識啓発に限定するもの」(P.155)などという主張が五月雨式にでてきて伊田氏により批判されている。いずれも具体的にはだれがどのような文脈で言ったのかは明らかにしない。一部行政と一部女性学者が行政や学者に都合のいい「意識啓発」を行ってきたことを批判したはずだ。それを、批判が誰か、どのような批判かはまったく具体的に言及せずにあいまいなまま単に自説が正しいと主張している。引用もしない。このような不正確な紹介の仕方(引用とは言えない)は学者のものとは思えない。意図的に外しているのと思われかねない。自らの主張や行動が全面的に正しく、批判はすべて批判する側が悪い。自分達はかわいそうな被害者だというスタンスはあまりにも自省的な視点がなく見苦しいのではないか。 伊田氏は、「使いたい人が使えばいい」という一方で、「ジェンダーフリー概念」について「フェミニストの中でもこの概念を使わないという人もいます。この概念を使わない人がいてもいいのは当然ですが、そういう人も、この概念が使用禁止とされることには反対すべきでしょう」(P.158)と自説を押しつける。「思想統制」を批判する一方で、「フェミニストなら○○すべき」とは矛盾もいいところだ。まるで「使用禁止」に賛成しているといわんばかりである点も決めつけだ。 長くなったのでここらで止めるが、この本は男のジェンダー学者が主導した女性運動を後退させる本である。また、基本的な女性運動の歴史を調べてもいない点で参考にならないし、事実を曲げることにもなっている。さらに、誰のどのような主張について言及しているのか、引用を書かないで批判する点など女性学会の刊行物とは思われない。このような本がわたしも加入している、日本女性学会の刊行物であるかのような体裁をとって刊行されたことは残念である。
- 最後に、おまけ。なぜ女性学会の本にオスのゾウさん2匹? 表紙カバー画のことだ。ゾウの兄弟とそれに杖を一振りする神様らしき雲上の御仁のお姿が描かれており、宗教がかっている。カエルもいるな。カバーでなく本体の外表紙はこのオスゾウ2匹のアップ姿。これは一体何を意味しているのだろうか。神懸かりのところがスピシンイダ氏の本領発揮か? 「カバーイラスト火消しゾウ兄弟」とあるところをみるとこのゾウさん、オス2匹らしい。ああ、これって伊田広行氏と細谷実氏のことだったのか。しかし、女性学会本のイラストに堂々とオスのゾウを描く感覚はどうしたことか。しかし、何の火を消するんだろうか、ほんとこの絵はナゾである。しかも、この絵が象徴しているように、この本がはっきりしたメッセージを伝えていないってことが一番深刻な問題のように思える。
*1:この答申の理解は、当時広く浸透していたと思われる。高岡市では男女共同参画社会基本法をバージョンアップした「高岡市男女平等推進条例」が制定された(2002年策定、2003年施行)。その際、「男女共同参画」は「男女平等」を目指すプロセスというこの答申について議論がなされ、それに基づいて「男女平等」を冠する条例を策定した経緯がある。
*2:「男女平等」という言葉は「男女」と性別を2つに分ける性別二元制を温存する概念という批判がある。確かに、「男女平等」概念にはこのような限界もあると思う。しかし、木村や船橋などの女性学者がいうような「性別特性論を前提とする」概念ではなく、「性別特性を乗り越えた」概念として使ってきた女性運動の歴史が存在することも事実だ。この事実を見落とし、新たに提出された「ジェンダーフリー」を選択する女性学者の動きは、結果的にそれまでの女性運動の歴史と断絶し、行政権力に近づいたこととも見える。わたしは、「男女平等」概念の限界を認識するものの、上で述べたような「男女平等」と「男女共同参画」の錯綜の歴史もある。男女平等」概念を使い倒して闘ってきた女性運動の歴史を安易に葬り去ろうとする動きがある現状では、この概念がどのように使われてきたかを丁寧に検証し、再検討する必要があると考えている。また、これをもって「ジェンダーフリーvs男女平等」の用語選択の問題としてとらえる見方も存在するが、問題はそういった表層的なところにとどまらない。
*3:伊田氏が、根拠を示さずに双風舎刊『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』に触れ「執筆者のひとりである山口智美さんを「フェミニズムを誤解しておられるようだ」と書いた件については、macska氏による鋭い批判が出ている。http://macska.org/article/136参照。