「身体・性差・ジェンダー」つづき

大隅典子さんhttp://nosumi.exblog.jp/3379062/から当ブログの学術会議のエントリー「身体・性差・ジェンダー――生物学とジェンダー学の対話」http://d.hatena.ne.jp/discour/20060708をリンクいただいた結果、生物学、生命科学系に関心あるみなさまに当ブログをお訪ねいただくことになったようです。しかしながら、そのエントリーに対して、「「ジェンダー」という単語は、生物学的な性のことも指しているのではないかとずっと思ってきました。というのも、英語ではgenderを普通に生物学的な性のことにも使っているからです。」のコメントや、ジェンダー概念について「現場の人たちと一緒にきちんと考えていかなくてはいけない」というコメントをいただいたので、改めて自然科学系のみなさんとどのように「対話」をしていったらいいのだろうかと考えました。


ひとまず、かみ合う議論をめざしたいと思い、生命科学ジェンダーを論じておられる高橋さきのさんの論考を読ませていただき、コメントを書きました。以下に再掲します。この論文は、コメントを書いてくださっているKararaさんがご推奨くださったものでもあるからです。

高橋さきのさんの「生命科学ジェンダー」を拝読させていただきました。
自然科学をご専門とされる高橋さんが「生物学総体が、こうした構造を通じて、社会的のジェンダー・バイアスを再生産する構造の一翼を担ってしまっていることについて、生物学ディシプリンは、もう少し自覚的であってよいはずだ」と、生物学に再考を促しておられる点に興味を持ちました。しかしながらその後のこの論考では、「<ジェンダー>は、冒頭で指摘した<性の踏み絵>に対して気迫をもって向き合うことを回避するためのアカデミズムのガジェットの観を呈することとなった」として、「ジェンダー」概念の探求をされていきます。でもって、生物学領域がなぜジェンダー・バイアスを再生産することになるのか、といった考察には進んでいかないのがもどかしく思えました。

タイトル(「生命科学ジェンダー」)に示されているように、せっかく「生命科学」をジェンダーという概念を使って論じられようとされるのであれば(このタイトルからはそのように理解されます)、生命科学自体がどのような概念装置を持っているのか、生命科学で重要なことは何とされているのか、あるいは生命科学で当たり前とされている前提事項はなにかといった生命科学の認識枠組みの検討こそ行っていただけたらと熱い期待を抱いてしまいます。生物学や生命科学をご専門とされているみなさまには、「ジェンダー・バイアスを再生産する(生物学や生命科学)の構造」とご自身のご専門がどのように関わるのか、その点についてお考えの上でジェンダー概念やジェンダーの議論にご参入いただけると幸いです。
現在のように、生命科学の基盤、すなわち「ジェンダーバイアスを再生産する仕組み」を温存したままでは、フェミニズム研究と生物学の建設的な議論を架橋することにはならないような気がいたしております。その点についてKararaさんはどのように考えられるでしょうか、お伺いしてみたい気がします。


というのも、高橋さんが引用されているアン・ファウストスターリングは、「科学には死角がつきもので、社会的に緊急な争点を研究するときがいちばん危険で、科学者も客観性を失う」(『ジェンダーの神話』工作舎刊、24頁)と書いています。そして、科学でも「男性だけを実験して女性についての結論をひきだす、かぎられた研究対象(ふつう白人中流階級)から全男性や全女性の結論をひきだす」(同書、19頁)。あるいは「もっともよくある方法論上のあやまりは、研究の結果でた差異が、ほかの要素で説明可能であっても、性にむすびつけてしまうことです」として、女子が数学で男子より劣っている例をとりあげています。
さらに、スターリングは、科学者が「男・女のちがいを、日常文化というプリズムをとおして分析します。そしてプリズムの別々の色で、質問のたてかた、実験のデザイン、結果の解釈を強調するのです。彼らの隠れた議題は無意識であいまいですが、よりひろい社会的議題ととてもよく似ていることがしょっちゅうです。(中略)完全無欠にはなりえませんが、まじめな科学者はだれも、このような死角をなくすよう努めます。しかし、研究の分野がひどく個人的なことにふれると、その努力がむずかしくなります。そして、自分の性別にふれると、いっそう個人的な意味合いが強まるのです。性差の研究では(セクシュアリティや人種と同様)、まったく公正な研究などそもそもだれにもできないのです」(同書、21-22頁)と科学だからといって「客観性」が確保されているという主張に疑問を呈しています。


科学の客観性を担保されたものとせずに議論をするならその前提や認識枠組みに踏み込まざるを得ないのではないかと思うのです。それは生物学や生命科学の研究にとどまらず社会科学やフェミニズム研究にもあてはまるのはもちろんのことです。一例を挙げるなら、『バックラッシュ!』本での山口智美論文は、ジェンダー研究者の言説を再考したものですし、同書瀬口典子論文は、ハラウエー同様、人間の進化についての科学言説を再考したものと思っています。(私の『バックラッシュ!』本が今手元にないので、このあたりの議論について具体的に論じられないのが残念です)