DV講演会に参加して

昨日、富山県民共生センターであった戒能民江さん(お茶の水女子大)の講演会に行って来た。http://www.sunforte.or.jp/kouza/C/kouza_004_C.htm 質問の冒頭で加害者は野放しなのではないかと意見が男性から出たり(加害者悪者、DV犯罪化については議論があるところのようですが)、市民はこれから何をどう進めていけるか、という積極的な質問もでて戒能さんも具体的に親身に答えておられたのが印象的だった。参加者も多く、しかも男性が割合多く参加されていた。今や男女共同参画のなかで、DV問題がもっともたくさんの人が関心をもつメインストリーム的なイシューになっていることを感じた。それは必要なことだ。ただ、逆風が吹いている中、問題として深刻で切実であるDV問題に力を入れるという力学が働いているのかなという気もした。


富山からもたくさん参加された『 全国シェルターシンポジウム2006 』 (in 函館)がアワプラネットのサイトでみることができる。http://www.ourplanet-tv.org/live.htmlアグネス・チャン(基調講演者) ・片山善博鳥取県知事)  ・高橋はるみ(北海道知事)・戒能民江お茶の水女子大教授)


この中で高橋はるみ知事(この方は富山県生まれの女性である)が、北海道は、男女平等が成り立っていないから、男女平等参画という名前の条例を作ったのだ、男女平等とつくのは県レベルでは全国で3自治体しかないこと、苦情処理委員を設けて男女不平等問題を処理していることの2点を述べて高らかに自慢しておられたのが印象に残った。ご自分がつくったわけではないが、担当者に説明を受けたということだった。(高橋知事は病気をされたせいか、少し痩せられた感じがした)


そうそう、高岡市も男女平等とつく条例をもっているんだったと思い出した。高橋知事が自慢しておられのを目の当たりにして、橘市長さんや担当課やセンターの職員さんには、苦情処理機関をもつわがまちの男女平等条例を自慢してもらえたらうれしいなあとも思った。また、われわれ市民も自分達が参加してつくった政策にもっと自信と誇りをもとう、そしてそれをもとにより切実な政策を横だし、縦だしして進展させていかなければと改めて思った。戒能さんがおっしゃていたことの中で、外国籍女性や障がいを持った女性などは、より逃げられない立場のひとたちであるから、彼女たちのDV問題はより深刻でより対応が必要だとおっしゃっていたのが気になった。


追加です。DV支援がメジャーになるということは、いろいろな意味で弊害もありそうだと思ったのは、以下を読ませてもらってのことだ。http://macska.org/article/118

「支援者」たちが自らのアイデンティティを一貫するために被害者に搾取的に依存していることをはっきりと描き出してしまったからだ。さらに、「支援者」が被害者と対等の関係を目指したり、被害者の視点から物事を見ようとすることは、そうした権力関係をあいまいにして隠蔽するだけの効果しかない

自助グループの中で被害者同士が語り合うことや元々友人だった同士で相手が困っている時に話を聞いたりすることを「支援」とは呼ばない(ただの友情だ)ように、対等な関係において困っている人を助けることは「支援」とは言わない、とマツウラ氏は指摘する。つまり性暴力やDVにおける「支援者」とは、はじめから「支援」が目的で、すなわち一方が他方を助けるという非対称な関係を作るために被害者に近づく人のことだ。そしてそうした「支援」は、簡単に「支配」に転化し得る。


うーん。これも読み応えあります。http://macska.org/article/66

精神的な虐待であればやりかねないな、と思ったりする。なぜなら、わたしには相手に自分のことを聞いて欲しい、自分のことを構って欲しいという欲求があるからだ。そして、それと同時に、いかに自分の欲求を満たすためであれ、他人を支配・コントロールしたくはないという意志があるから、常に「ヘゲモニー闘争」が行き過ぎていないかチェックして、支配的なパターンをパートナーとの間に作らないようにしようと努力する必要があると感じている。

自分が加害者になりうるという想像力なしにDVに取り組むことの怖さを感じてしまう。DVが「支配や力の発動」ということだとしたら、常にどこにでもおこることだと改めて思う。これまでDVの被害者にはなっても加害者になることなんかあり得ないと思っていたことを反省した。