DVとジェンダー

またまたDVネタがつづく。きのう、DVについて活動をしておられるグループ女綱(なづな)http://www.geocities.jp/naduna2000/のみなさんが看護専門学校で出前講座をされた。ご自分のDVサバイバー体験や日ごろDV相談を受けている中で思うことなどを語られた。デート中のカップルになりきってのロールプレイで、演じる学生が自らをジョージとキャサリンという名前をつけて演じてくれた。そのあとディスカッションも活発だったし、コメントもいっぱい書かれていたようだった。


DVについて初めて聞いたという学生もあり、DVサバイバーや日ごろ切実な問題として取り組んでおられる方のお話は学生さんたちにはある程度伝わったのではないか。女綱さんの講座のねらいである、自分が被害者・加害者になるかもしれないという、「他人事」ではない「自分事」という視点と、仕事の上で発見する機会が多い医療従事者としての視点をもってほしいという2つの思いは伝わったように思う。DVだと「気づく力」、必要な支援に「繋げる力」を持って欲しいという講座趣旨のことだ。


ただ、難しいなと思うこともあった。一人の学生から女子から男子へのDVもあるのかという質問も出た。5%くらいありますという答えだった。DVが起きることについては、力と支配(パワーとコントロール)の原理があること、性差別社会であること、男らしさ・女らしさ(ジェンダー・バイアス)の問題だという説明がなされていた(これは女綱さんだけではなくよくあるものだ)。しかし、これって女子から男子へのDVの説明として十分納得いくものなんだろうか?


もちょっと具体的なことでいえば、解決の糸口として「“男らしさ”や  “女らしさ”といった思い込みに縛られないで、”自分らしさ”を見つけていきましょう」といった説明にひっかかった。以前の講座で見せてもらったアウェアの教材ビデオ「デートDVドメスティックバイオレンス)」でもそういう説明がなされていて気になっていた。女はピンク、男はブルーという男らしさ、女らしさにとらわれずーというのはあまり重要ではないように思う。20そこそこの人たちにとって「自分らしさ」が何かなんてわからなくて当たり前と思うし、そう言われるとかえってどうしたらいいかわからなくなるかもしれない。


 「DVはジェンダーの問題だ」「ジェンダーバイアス(社会的性差による偏見)があるせいだ」というのがすぐにでてくる。そういえばなんとなくわかったような気になり、話はそこでストップする。ジェンダーや男らしさ、女らしさという説明はよくある。例えば、http://homepage1.nifty.com/womens-net-kobe/what.htmhttp://www.jinken.ne.jp/gender/dv/など。でも、DVにはジェンダーだけが関わるわけではない。


以前自分で話したときもDVの説明は難しいと思った。いろんなDV著作から引いてきたわたしの説明が複雑な事例をイメージする聞き手に対して十分納得させうるものにはならなかったからだ。「DVはジェンダー問題」「DVは男らしさ/女らしさの問題」という命題に限界があるのではなかろうか。例えば、若い世代の恋愛関係において女性が主導権をもっているケース、家庭内で女性が実権をもっているケース、異性愛ではなくレズビアンのケース、外国人とのカップルのケースなどなどでは支配の形態もいろいろだろうし、それと暴力のつながりもさまざまな結びつきがあるのだろう。「男性から女性への暴力」(日本人同士、異性愛間が前提?)だけを想定してある理論説明では聞き手が納得できない様子がみえる。主にアメリカでつくられたDV理論(被害者がなぜ逃げないかという理由として言われる「学習された無力感」というのは、ねずみの実験による知見とか・・)をあてはめる段階から、しっかりと日本の実態に即した研究をしていく必要を感じるところだ。その際には、「DVはジェンダー問題」という理解にとどまらない議論の展開が必要だと思う。