[性]中村うさぎ『私という病』について

中村うさぎ『私という病』を興味深く読んだ。「どうして私は、女であることを、おおらかに正々堂々と楽しめないのか」という中村うさぎさんに共感しつつ読み進めた。

しかしここで書くのは、セックスレスが多こと、特に女性がセックスを遠ざけているという前回エントリーに関係しそうな一部についてである。男は、妻とのセックスとなると「嫌々、仕方なくするもの」と自嘲しながらしか語れない、女を対等な相手とみていない、というくだりから紹介する。

それにしても男たちは、妻とのセックスを、どうしてあんなに「嫌々ながら、仕方なく」といった口調で語るのだろう。照れているのかもしれないが、それなら、妻とのセックスの話など他人にしなければ良いではないか。あえてその話をするのであれば、あんなに自嘲的な言い方をする必要はあるまい。あなたの妻は、人間なのである。自分が外でそのような話のネタになっていることを知ったら、どんなに恥ずかしさと屈辱を感じるだろう。
「この世で一番の変態は、女房とラブホテルでセックスする男ですよ」
自他共に認める漁色家の男性が得々と口にした言葉である。私は、その人の妻を、一度見かけたことがある。品のいい綺麗な女性だった。なのに、その夫は、このようなジョークを彼女のいないところで言って、彼女の品格を必要以上に貶めている。まるで「俺は女房とセックスするほど、女に不自由してないよ」とでも言いたげに。女房というものは、そんなに価値のない女なのか。私は心の底で、彼の妻が彼の部下(あるいはライバル)とこっそり不倫していれば面白いのに、と意地悪な想像をせずにはいられない。べつに殊更女房自慢などすることはないが、平然と女房を貶める男達はすべて女性蔑視者だと私は思う。そしてこのような男たちを、心の底から軽蔑するのだ。

女は妻や母になった挙げ句に女扱いされなくなったらいったいどこで性的幻想や性的刺激を得ればいいというのだろう。彼女たちにも欲望はある。性欲だけではなく、「女として満たされたい」という欲望があるはずだ。

たいていの男にとって、人生で初めて出会う「女」は母親である。したがって、母親を通して「女」を認識した男たちが、世の中の女たちを見る時に自分の中の母親像に影響されてしまうのは、こりゃまあ致し方ないと思う。(中略)問題は、母親から自立できていない未熟な人格であることの正当化にその理屈を持ち出すことだ。母親を人間として見れない男は、女という存在を人間として見れない。母親に甘えることしか学習して来なかった男は、すべての女に甘えていいと思っている。この呪縛から己を解放するのは、自分自身なのである。これは、男にも女にも言えることだ。
「女の性欲が怖いのは、自分が母親の性欲を恐れているからだ」というのであれば、「何故、自分は母親の性欲が怖いのか」というところまで論を掘り進めるべきであろう。だが、多くの男は、「俺にとって、すべての女は母なのだ」という結論で、思考停止してしまう。それゆえ、「性的な匂いのする女」に欲情しつつ、「母親に欲情する自分」に恐怖や嫌悪を覚え、それを己の中で論理的に処理する能力もないものだから。「欲情させる女が悪い(←「悪い母親」像の投影ってヤツですね)」という他罰に転じるのだ


異性愛の女は、マザコン男の匂いを敏感にかぎ分け、マザコン男を却下できないとまずいと思う。一方、子育てする際には子どもをマザコンにしないように育てることが肝要だ。


しかし、自分が「マザコン男」だと認識している男も、自分は「マザコン息子」を育てたって自覚している母親もいないだろうから、これは意外と難しいことなのかもしれない。