「ホモフォビア」って、ほんとはどういうこと?

5月17日は何の日か知っていますか? ある方から国際ホモフォビアの日だと教えてもらいました。(通称:IDAHO)Act Against Homophiobia

1990年5月17日にWHOが同性愛を国際障害疾病分類(ICD10)から削除することを決議したことから、5月17日は国際反ホモフォビア・デー(International Day Against Homophobia, IDAHO)とされている。呼びかけ人はLouis-Georges TIN氏であり、現在では世界の約50カ国で実施されている。

日本においては、TOKYOPride(東京レズビアン&ゲイパレードの主催団体)、第10回レインボーマーチ札幌実行委員会、ゲイジャパンニュース(LGBT関連ニュースサイト)、尾辻かな子の4団体により、2006年にAct Against Homophobiaという企画が実施された。

これよんでびっくり。同性愛が1990年までWHOの精神障害のリストに入っていたとは知りませんでした。ひどい! わたしは、とりあえず異性愛者のように認識しているので、つぎのようなことができるのではないかと考えました。

LGBTについての認識を高め、ホモフォビアを減らすために私たちができること
1. 自分の持っている思い込みに気づいている。そして、職場や学校で、また、家族のなかにLGBTの人たちがいるかもしれないということを常に頭においておく。
2. 自分が異性愛者であると思う人は、自分が異性愛者であるとわざわざ言う必要のある機会がいかに少ないかということについて考える。
3. LGBTに対してポジティブな本や雑誌を読み、自分の利用する図書館にもそれらを配置するよう頼んでみる。

とりあえずできることとして、人前で話をする際に、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)の人たちがいるかもしれないということを念頭においておく、ということが十分できてないと思うのでそれを強く意識していきたいと思いました。

一般に、ホモフォビアは「同性愛嫌悪」です。しかし、「同性愛嫌悪」だと、なぜ「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)」というグループ名の方たちが取り組んでおられるのでしょうか。そういう疑問には強くうなづける文章がありました。

国際基督教大学LGBITグループ「シンポシオン」

ホモフォビアを「嫌悪症」と呼び、「病的」で「異常」なものと見ることは、必然的に「正常な状態」、「正しい精神構造」を想定することになる。

レズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに対する日本の中に行き交う眼差しが、必ずしも生命や社会生活に危機が及ぼされるほど強烈な攻撃性や敵意を含まないという事実だ。

ホモフォビア」とは、「篤い友情」と「愛情」といった曖昧さがつきまとう感情の移動する分割線として機能するのだ(濃密すぎる友情に対し、第三者からあれは「ホモ」、もしくは「レズ」だと言われた瞬間、それは社会によってイエロー・カードを突きつけられていることになる。あるいは、男同士の親密な友情は、「私たちはホモではない」ということを示し続けることで社会的に許されるものとなる)。いわば、ホモフォビアとは、社会のあらゆる場面で作用するある「限界設定」なのである。私がここで提案したいのは、ホモフォビアを「嫌悪症」としてではなく「ホモセクシュアリティやその周辺で形成されるある限界の設定」だという視点で日常生活を考える

公的な場所で男女のカップルや夫婦は歓迎されるのに、同性同士や同性同士に見えるようなカップルに対して行われる規制は、明らかに作為的な「限界設定」であり、ホモフォビックである。職場で異性のカップルが当然受け取れる権利を同性カップルが受け取れないことは、当然ホモフォビックな状況である。異性間の恋愛ならば当然のように話せるが、それ以外の間の、必ずしも「異性」間による「常識的な」の形式以外の恋愛が語れないのならばホモフォビックである。自分自身に対し、「普通ではないから」といって当然のように自分自身に何かしらの限界を設けるのならば、これも当然ホモフォビアである。ホモフォビア、ある限界の規定は、暴力はもちろん、蔑視でも笑いでも好奇心でも自己規制でも、あらゆる手段で行われえる。

よって、反ホモフォビア活動はこのようなものになる。不当なものはもちろん、一見当然のように装っているホモセクシュアリティとその周辺にある「限界」に対して、異議を唱えることだ。


これですっきりわかりました。「同性愛嫌悪」と言っていたらちょっと広がりがありませんが、わたしたちの「常識」がほかの人の権利を侵害している可能性があることに敏感になり、単に同性愛だけではなく、バイセクシュアル、トランスジェンダーインターセックスを含めて、自分の中であたりまえのようにつくっている性に関する「限界」「境界」を疑っていくこととだとすれば、その重要性がわたしにもわかります。わたしに「ホモフォビアの日」について教えてくださったのも、トランスジェンダーの方でしたが、そのことの意味や重要性がやっとわかりました。

「一見当然のように装っているホモセクシュアリティとその周辺にある「限界」に対して、異議を唱えること」を意識していきたいと思いました。教えてくださってありがとう。Tさん。