全米女性学会での発表について報告
遅くなりましたが、全米女性学会でのわたしの発表についての報告です。この学会の模様全体については、写真もHPにアップされていますね。
山口智美さんと、小山エミさんのご報告がそれぞれアップされていますので併せてよんでいただければと思います。
わたしが書こうと思うのは、1)全米女性学会に参加して思った、全米フェミニズムと全日本フェミニズムでは中央集権度が違うんじゃないか、という気軽な感想、2)富山市におけるパンの性差別問題で東京生まれの「ジェンダーフリー」概念がいかにバックラッシャー側を勢いづかせ、地方の「性差別」問題の解決を阻害したか、3)富山のケースで「ジェンダーフリー」が使われたのは、「男女平等教育=男女の特性を踏まえた平等」論を批判する「ジェンダーフリーな教育」という新(珍?)説(男女平等教育研究会編1999)に影響されたため、の3点です。まず今日は、1)と2)について報告します。
まず、単なる感想ですが、1)全米フェミニズムと全日本フェミニズムは中央集権度が違うんじゃないか。
全米女性学会に参加して思ったのは、アメリカの大地は東西南北に広く、日本のように東京に大学や情報が一極集中しているようなことは地理的に起きにくいのではないかということでした。日本で学会に参加すると全国各地からというよりも東京からの参加が一定程度を占めているように感じますが、アメリカからの参加者は、ニューヨークやワシントンD.C.の人が多いというより、コロラド、ケンタッキー、ハワイなど全米各地に散らばっている人たちがシカゴ近郊に集まってきた感じでした。日本では大学という情報産業が地理的にも情報的にも東京に偏在していることが影響しているように思いました。
そして、東京と東京郊外に住んでいる研究者が圧倒的に多いために、「ジェンダーフリー」という東京発生の造語を造語と思わず、「わたしの常識はあなたの常識」として全国に広めようとした。それが地方の学校教育現場に「降って沸いた」ような状況が起きて、あちこちで混乱を生じさせたのではないかと思うのです。
2)東京生まれの「ジェンダーフリー」概念がいかに地方の「性差別」問題の解決を阻害したか、についてです。
富山の「学校給食のパン」問題とは・・
わたしの報告は、2002年富山市の学校給食で女子のパンやご飯が男子に比べて量が少ないという性差別が発覚した際に右派の市長とフェミニズムの攻防についてでした。2002年富山の学校給食で女子のパンやご飯が男子に比べて量が少ないという性差別について、『朝日新聞』が全国版でスクープで大きく取りあげた(「中学給食男女格差ーパンの厚さもご飯の盛りもハッキリ違う」2002年5月21日朝刊)ことを機に全国的に話題になった。
具体的には、文部省基準では男女とも85グラムであるが、富山市では男子は100グラムと多くし、一方女子は70グラムと少なくしていた。コッペパン、フルーツパン、ミルクロールパン、かぼちゃパンなどぜんぶに格差が設けられていた。これについて富山市教育委員会は、学校給食がはじまった1975年から27年ずっと「男女のエネルギー代謝が異なる」ということを根拠に(文部科学省は所用平均栄養量基準を男女とも85グラムと定めているが)男女で主食の量を変えてきたが、「男女のエネルギー代謝は違うから区別している」「慣行であり、男女差別のつもりはない」と反論し、当面見直す予定はないと表明した。一方、文部省学校健康教育課は、「これまで、男女で分けている例は聞いたことがない。基本的には性で区別せず食べてもらいたい」とコメントした(いずれも『朝日新聞』2002年5月21日)。
議会での「ジェンダーフリー」論争
この問題は、同年6月富山市市議会で取りあげられ論争になった。質問に立った志麻愛子議員は、 自身のサイトで次のように報告している。
3 中学校給食の主食の男女差について
質問(志麻議員)
富山市の中学校の給食では、主食において男女に差を設けている。文部省基準では男女差はない。男女により目安とする一日のエネルギー所要量が違うことを理由にあげているが、数値は平均であり、成長期の中学生は男女差よりも個人差が大きい。また、豊かで活力に満ちた社会を築くために、性別にかかわりなく一人一人がその個性と能力を十分に発揮できる環境づくりが必要だが、学校においてもジェンダーの視点からの見直しが必要と言われている。ジェンダーとは「社会的・文化的につくられた男女の違い」のこと。文部省の委嘱研究による「男女平等教育に関する学習ガイドブック」では、学校で無自覚・無意識のうちに伝達される男女差を「隠れたカリキュラム」として注意を喚起している。この主食差もそれにあたる。答弁(大島教育長)
学校給食の運営にあたり、様々な協議の場において特別な問題提起もなく、学校からの報告にも、子どもたち自身からの不満の声がないと聞いている。ジェンダーフリーの視点からのとらえ方は必ずしもなじまない。
富山の学校給食の性差別問題でえは、東京で生み出された「ジェンダーフリー」ということばが突如浮上し、保守派との攻防のキーワードとなったのであった。しかし、そもそもの発端は、「性差別」問題として起きたのであった。地元で7月11日に集会が開かれたが、その時はわたしも参加したが、「性差別」問題として議論したことを覚えている。さらに、その際の報道でも「同市の男子中学生が母親に『パンの量が違うのは、男女差別だ』と指摘した」というエピソードや、「教育の一環としてこういう男女差別をするのはよくない」との意見が出た」など「性差別」問題として語られたことが記事になっている(「給食の男女差を市民が意見交換・富山」『朝日新聞』7月12日)。
しかし、東京を中心とした主流フェミニズムはその流れを「ジェンダーフリー」問題へと転じていった。「学校をジェンダーフリーに・全国ネット」(事務局・入江直子神奈川大教授)が主催する勉強会が東京で開かれた際に富山の学校給食の性差別問題が話題になっている。その際、「文科省もジェンダーフリーの方向に動いている」という大学教授の指摘が聞かれたことなど、給食の問題は「ジェンダーフリー」問題として扱われたように記されている(「東京で勉強会 男女別給食活発な議論」『朝日新聞』8月23日付け)。このように富山市の学校給食の「性差別」問題は、主流フェミニズムによって次第に「ジェ ンダーフリーな教育」に関する事例として全国に知られるようになっていく。
なお、志麻議員がここで「ジェンダーの視点からの見直しが必要」と訴えたことについては、次エントリー「3)「男女平等教育=特性論を踏まえた議論」と書いた文献を見つけたこと」で改めて論じるのでここでは省略する。
「ジェンダーフリー」に棹させど、その流れを覆すことができない
これに対しては、わたし自身次のような批判の文を『ふぇみん』(2002年9月25日)に寄稿したことがあるが、大きなうねりとできずに声はかき消されてしまった。
「ジェンダーフリー」は、権力関係に言及せずに使えるという点で支配者を脅かさない都合のいい言葉となってしまう。長い間、『性差別』を言挙げしてきた女性運動からすれば、これは明らかな後退と受けとめたい。つまり、「ジェンダーフリー」制作への抗議を「バックラッシュ」だと言うことで、「個人の意識における女らしさからの自由」だけに注目が集まり、それだけが女性政策において重要な課題であるかのように認識されかねない。結果的に、伝統主義者の「引き戻し」戦略が効果を持つことにならないだろうか。
「バックラッシュ」と一括りにするのではなく、それぞれの現場で批判の相手方をみて、背景や原因を踏まえた反論や対抗言説をつくり出すことが重要だ。全国の関心を集めることで問題解決が進まない場合もある。例えば、富山市の学校給食において、女子生徒のパンの大きさが男子生徒より小さいという「女子生徒差別」問題では、全国的に大きな話題になったことが行政をより頑なにさせた。それぞれが、足下でしっかりと対策を練った上で、行動を起こすことだ。
地元からの「性差別」の声は、「ジェンダーフリー」という声を覆すことができずに終わった。ちなみに、わたしの意見が掲載された『ふぇみん』の特集は、橋本ヒロ子氏による「『バックラッシュ』には幅広い連帯行動が必要」というわたしの主張と相反する寄稿文が大きく載っていた。また、「『ジェンダーフリー』政策に強まる反動的な動き各地で」という「ふぇみん」編集部による記事も載り、この「どう立ち向かう女性政策バッシング」という特集自体、「ジェンダーフリー」を主流化する動きであった。
ウエッブ上での「ジェンダーフリー」批判
もう一つの攻防の場面は、ウエッブ上での攻防であった。2002年10月、森雅志富山市長が自身の個人サイトで次のように「ジェンダーフリー」を「男女の性差を否定し、男女を同質にしようとするきわめて奇矯な発想」であり、「ジェンダ・フリー」論者は「雌雄同体のカタツムリにでもなったらどうだ」と激しく批判したのだ。
最近、男女共同参画社会を推進しようとする運動の中でしばしば「ジェンダーフリー」という言葉が使われる。
ジェンダーとは生まれながらに備えている性差(sex)ではなく、社会的・文化的に形成された性差を言う。「女らしさ/男らしさ」というイメージは、生活習慣や制度などの社会過程によって作り上げられてきたものであり、このような固定観念にとらわれることなく、誰もが自分らしく生きることの出来る社会を実現することが大切だとする考え方が「ジェンダーフリー」という思想である。ジェンダーの呪縛から解き放たれなければならないという意見である。誰もが自分らしく生きることが大切なのは当然であり、異論を挟む余地など無いように見える。しかしながら声高に「ジェンダーフリー」を叫ぶ連中にかかるときわめて特異な思想へと・・進化(?)していくこととなるのだ。
連中によれば自分らしさだけが意味を持ち、男らしさや女らしさを否定することになる。その結果、「男女平等」とは男女の性差を前提とした上でお互いを尊重しあうものであるはずなのに、男女の性差を否定し、男女を同質にしようとするきわめて奇矯な発想になっていくのである。そして、教育や行政の現場に対しても男女の区別や不均衡を排除するように求めてくるのである。おそらく連中は性差を否定し、結婚を否定し、家族制度をも否定するというきわめて危険な思想を潜ませているのだろう。そこまで過激ならいっそのこと雌雄同体のカタツムリにでもなったらどうだ、と言いたい。この際、正しい「日本男児」は過激思想と闘うために堂々と決起しなければならないのだ。
森市長が「ジェンダーフリー」を激しく批判したわけ
それは、学校給食のパン問題が「性差別」だと認められれば、富山市が制定した「富山市男女共同参画推進条例」に準じて、即刻性差別の「積極的改善措置」をとる必要が生じたためであろう。なぜなら、富山市の男女共同参画推進条例では、「第3条 男女共同参画の推進は、男女の個人としての尊厳が重んぜら れること、男女が性別による差別的取扱いを受けないこと・・・その他の男 女の人権が尊重されることを旨として、行われなければならない。」と規定しているからだ。同条例では、「第2条で(2) 積極的改善措置 前号に規定する機会に係る男女間の格差を改善するため必要な範囲内において、男女のいずれか一方に対し、 当該機会を積極的に提供する」と格差を是正しなければならないと規定されていた。そのため、森市長としては、「性差別」をしていたことを認めないために、相手が持ち出した「ジェンダーフリー」が意味の定まっていないことを逆手にとって全国で保守派が当時持ち出していた「危険なジェンダーフリー」という意味を付与し反撃したのであろう。認めれば即刻是正措置をとらされるわけだし、それは教育委員会の落ち度を認めることになり、避けたいところであったろう。
なお、教育委員会が「ジェンダーフリーはなじまない」としたのも同様に、学校給食の主食で男女差をつけることを「社会的・文化的につくられた男女の違い」を認めているとする批判に対し、「男女によるエネルギー代謝量の違いは、生物学的な性差、すなわち男女の生理的機能の違いにであるという見方による。つまり、学校給食の主食の男女差は、生物的な差に基づいており、健康上適正な対応であるという主張であった。(しかしながら2003年4月以降、男女とも大きさを自由選択することができるようなシステムへと変更された。これをみると、この主張は事実上1年経たない内に教育委員会自身により撤回されたといえよう)
これら富山市当局の対応は、市当局が「性差別をしていた」という落ち度を認めることを回避する対処をしていたということであろう。 攻防が「ジェンダーフリー」をめぐって行われることによって、問題の核心である
「学校教育現場での女子生徒への性差別」という実態は隠れてしまい、女子生徒に「性差別は解消すべきことなのだ」という励ましを与えることができないままに推移してしまった。そしてフェミニズムは過激な思想だという市長が付与したイメージは是正されずに残ったように思われる。
フェミニズムの政策課題とは?
フェミニズムの対応では東京中心のトップダウン方式がとられ、地方のフェミニストたちの一部もそれに従った。そして、東京で生み出された「ジェンダーフリー」というキャッチフレーズが富山でのフェミニズム・右派双方攻防のキーワードとなった。ここで主流フェミニズムは、地方における政治状況を無視し、「遅れた地方」への対応として「進んだ政策」である「ジェンダーフリー」を押しつけるといった対応に終始してしまった。
この時、「性差別」ではなく「ジェンダーフリー」をキーワードとして使ったことが問題のこと上げにつながり女子生徒に「性差別は解消すべき」というメッセージを与えないままに終息してしまった。 さらに、反論として使われた「フェミニズムは男女差をなくす過激な思想だ」というイメージについては、地元新聞が「ジェンダー論刺激的に森富山市長個人HPでエッセー」(『北日本新聞』2002年10月3日)で、「『男らしさ、女らしさを認めた上で社会のありようを考えるのは当然のこと・・・過激思想に惑わされずに考える姿勢が大切だ」というように問題点をズラした市長の主張を無批判に取りあげたが、有効な反論がされないままになった。
その一方で2003年4月より富山市の学校給食のパンの大きさは、自由選択方式に変更された(2007年6月時点で学校保健課に問い合わせた結果、大小2種類の選択は依然として富山市全域で行われているということであった。但し、実態にどのような選択が行われているか、については調査していないということであった)。しかしその変更が「性差別を解消するため」であるということは一切いわれなかった。
結局、学校給食における「女子への性差別」問題は表面的にはなくなったわけだが、それが「性差別」であったかどうかということに共通理解がもたれることにはならなかった。また、この例が性差別の改善例として中学の女子生徒を励ますことにもなったはずであり、「性差別をなくそう」という共通認識がもたれる絶好の機会であったにもかかわらず、その機会を失してしまった。
「ジェンダーフリー」は「性差別」問題の解決を推進しない
この事例からは、主流フェミニズムが「ジェンダーフリー」を持ち出したことが「性差別の解消」という結果を招かなかったことがうかがい知れる。さらに、このように「主流フェミニズム」が地方の問題に取り組む際の課題として次のような点が指摘できる。
1)市長、教育長など地方行政府トップが往々にして性差別問題を認識できていなかったり、自身が差別的な考え方の持ち主であることを軽視している。(当時の富山県内市町村首長がいかに性差別的な考えや行動をとっているかについては、『富山県男女平等政策の現状ー35市町村の首長に聞く』(シャキット富山35:男女共同参画社会基本法ネットワークin富山、2002年2月発行)に詳しい(これも追って紹介したい。「給与振り込みになってから男の権威がなくなった」「教育上男女平等ばかり推進していてはよい結果につながらない」「パークゴルフなどで男女参加している姿こそ男女共同参画だ」など・・・・とんでも発言がみられる)。
2)地方の行政府が通常、議会など地方の経済界、民間団体などの保守人脈と緊密な連携をとって施策を進めていることを見落としている。「ジェンダーフリー」などの「ジェンダーフリー」「ジェンダー」「エンパワーメント」など日本語ではなじみが少ない理論や外来語を積極的に使う政策は、保守層の反発を招くか、言葉を導入するだけにとどまり、内実が伴わない。
3)また、東京と地方の格差が開くなどの変化が起きている現在、地方行政府は一層守りに入っており、人権政策には後ろ向きな対応をしている。その中で「ジェンダーを守れ」といった主張はますます現状に合わないものと見なされている。もちろん、地方では民族差別や同性愛、トランスジェンダー、外国人女性の問題などは取り組む課題の中に入っていない。ただし、これは東京都でも変わらない事態ではないかと推察されるが、、。
このように日本の主流フェミニズムは、行政と密着して政策を進める過程でフェミニズムの中にキャノンをつくる一方(前エントリー参照)、「ジェンダーフリー」教育を推進するなど、地方における「性差別」問題の解決に逆行しているといえよう。
そうした事態を変えるには、東京で決めた「ジェンダーフリー」などの政策を全国一律に流すのではなく、各地で足元の性差別問題を発掘しそれに地域差、階層差などに敏感な取り組みを展開すべきである。現在のように「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」といった抽象概念にこだわるより、フリーターやパート、非常勤など格差にあえぐ若い層や移住女性、レズビアンなど実際に深刻な問題を抱えた現場の人々の声に沿った形で問題解決していく取り組みを進めていくことが必要と思われる。
要するに、フェミニズムはトップダウン型からグラスルーツの原点に戻ることが肝要である。ただし、言うは易しだが、富山の学校給食問題での対応を振り返って実際にやるのはかなり難しいことだと感じている。