『隠されたジェンダー』はすごい本だ。

このブログでも時々コメントくださっている筒井真樹子さんが訳されたケイト・ボーンスタイン著『隠されたジェンダー』を読んだ。これはジェンダー観が揺るがされるすごい本だった。あんまりすごすごてまだかみ砕けていないが、読む側も、自分を捨てる覚悟を決めてから読みましょう。 とmacskaさんが書いておられるのは、ほんとその通り!と思った。

まあ、わたしのジェンダー観は、これまでも男女二元論やそれに基づく男女二元制からなる社会が問題だ、という認識もっていましたよ。しかし、『隠されたジェンダー』が他のジェンダー関連書と決定的に異なるのは、一つには「性別のあいまいさ」「ジェンダー流動性」を自らの体験を踏まえた基本的な理論として打ち出していること、二つめに、男/女という二元的なジェンダーの制度が男と女の階級制度を維持するものとして執拗に保持されていることを徹底的に衝いていることだ。まだ十分に受け止めていない点も多いと思うけれど、この2点についてボーンスタインの書いていることを記してみたい。

なお、筒井さんの同書についての記述はここを参照ください。さらに、『バックラッシュ』キャンペーンサイトでの筒井さんとchikiさん、macskaさん、tummygirulさんによるこの本についての対談は、ここで読めます。

ジェンダーの辺境の境界線上を生きてみて見いだしたのは、文化により作り出されたジェンダーの制度は、とりわけ悪意をもって、分け隔てをもたらす構築物であるということである。そして文化がジェンダーについて、自らの産物であるということを問うことはできないと思わせていることから、それは全く危険なものになっている。文化により正統に任命された代表によってとりおこなわれる研究は今も対話によってではなく観察によって行われている。私は本書を、この傾向を覆すところから始めたい。私は本書を、大人になってから常に求め続けたけれども、決して行う機会に恵まれなかったような対話にしたい。(p.18)

そして、ボーンスタインは、主流文化が「ジェンダーを守る者」であることをもって「ジェンダー・テロリスト」であるとか、「ジェンダーというカルト」だとまで言ってのける。構築物であるにもかかわらず、疑いもされず自明とされ、またパワーが強力だというメタファーだろう。それは「性別違和」について次のように考えていることからも伺える。

私は、「性別違和」があると言われる。これは私が、ジェンダーについての理解が不十分であるという病気を持っていることを意味する。私自身はそうは思わない。私は、人生において過去に性別違和があった、というふうに思いたい。性別を変えた後、ジェンダーの制度に疑いもなく没頭していた時期も含めて。ジェンダーが構築されたものであるということを理解し、私がその制度にどう関わっているかを理解するようになって間もなく、性別違和はおさまるようになった。

私はトランスセクシュアルが「自然に」、生まれ持った性器を嫌うのだとは思わない。その証拠を見たことがない。嫌うように教えられなければ、自分の身体の一部を嫌ったりしないのである。私たちは、身体の「自然」でない部分を憎むよう教えられている。女性にペニスがあることや、男性にヴァギナがあることを。そして、この「自然」の審判者は、医師であるように思える。トランスセクシュアリティは、医療化された現象である。この用語は医師によって造られた。制度は医師により永続化されている。

ボーンスタインは、私たちの文化は人を男か女かどちらかに分けるのがあまりにも自明なことと見なしているが、男と女の違いを考えてみても、「一方のジェンダーだけに必ず例外なくあてはまるようなものは何一つないのである」(ケスラー、マッケンナ)と性別は決して「自然」なものではないと述べていく。では、どうしてわたしたちは、自分の性別に違和感を持たないのだろうか。ボーンスタインは、「文化自体が、ジェンダーに取り憑かれているのである。そして、例によって文化は、その全体がジェンダーに取り憑かれていることには、最後まで気づかないだろう」(p.71)と指摘する。人々は、心底からジェンダーが安定したもので、疑う余地のないものだと信じ込む文化のまっただ中にいるから疑うこともないのだという。文化がジェンダーを安定させ、不動のものとしていることについては次のようにも書いている。

私は毎日テレビを見る。テレビが、何が男か、何が女かを教えてくれる。毎日見ていると、テレビは女になるには何を買うべきかを教えてくれる。そして、全部買ってみると、私は真の女性になったのだと、自分に言ってみた。トランスセクシュアルだということを認めたことはないのだと。(p.69)


わたしが興味をもったのは、メディアやアートなどのマイノリティ表象についての指摘だ。

優越文化は、マイノリティを紋切り型に扱うことにより植民地化し支配する。これは、トランスジェンダーというマイノリティについても異ならない。
(p.72)

優越的な文化が同性愛と性別のあいまいさを共に排除するのは、性的指向というよりは、性別役割に関係している。(p.124)

テレビに出てくる「おねえキャラ」やトランスジェンダーの人たちが登場するが、男/女、男の子/女の子といった文化の側の二分法に適合しない一種変わった人たちとして描かれることが多い。その変わりよう、「ふつうの人」ではないキャラが珍重され愛でられるという仕組みになっている。どれだけトランスジェンダーの人がテレビに多く出るようになっても、性の二分法を揺るがすような形で取り上げられることはない。すなわち、おねえキャラの人たちがこの文化におけるジェンダーの規範を侵しているとみなされる場合には容赦なく排斥されることになるのだ。それほど「ジェンダーという制度」は強固で壊れにくいものだと指摘される。確かにそうだと思う。これまでのフェミニズムではここまで「ジェンダーという制度」を徹底して打ち破ろうという指摘はなかったように思う。しかし、ボーンスタインの主張を違うぞと言う反論も簡単には思いつかなかった。

次に、2つめの主張、男/女という二元的なジェンダーの制度が男が上、女が下という階級制度を維持するものとして働いているというところについて引用する。

女性が絶えず抑圧されていることかrわかる唯一のことは、二元的なものはすべて、一方を上に置き、他方を下に置くことである。平等の権利を求める闘いは、二元論について明らかにする闘いでなければならない。(p.127)

男性か女性かという、一方か他方かによりできているジェンダーの階級制度の中で、一方を上位に置き、他方を下位に置く構造は、力の不均衡を必要としている。二元的なジェンダーの制度が存在し続け、活発に執拗に保持されているのは、二元的なジェンダーの制度が、第一にパワー・ゲームが行われる場所だからである。それは、世界のおおよそ半分の人が、残りの半分に対して権力を持つ競技場なのである。
 二元的なジェンダーの制度がなければ男性と女性の権力の力学は終わるだろう。ジェンダーを階層的な枠組みに用いることはないであろうし、二元的なジェンダーの制度の約半数のメンバーはおそらく途方に暮れることになるだろう。かららが有し他方に対して行使している権力はよい物であり、それに依存することを、かれらは臨んでいる。かれらはこれを失うことを恐れている。私が話しているのは、「男性の特権」と呼ばれているものについてである。そして、これこそがジェンダー問題の核心である。これがジェンダーを維持しているものである。男性の特権を有し行使する人は、それを認めようとはしない。男性の特権は、制度をつなぎとめる糊のようなものだと思う。(p.128-9)

これもまた納得のいく主張である。今の私はボーンスタインによって自らのジェンダー観を揺るがされまくっている。ジェンダーを頑固に2分している文化を揺るがせることをもっと考える必要があるということは理解できた。それにより、トランスジェンダートランスセクシュアルの人たちの生きがたさも緩和される方向に行くことになるのであろうから。じっくり考えてみたい。筒井さんの訳はとても読みやすい。元翻訳者としては、これだけこなれた訳にするのはさぞかし力と時間を要したことだろうと敬服する。女性学や女性運動方面でも広く読まれるといい本である。そしてジェンダーの制度についての議論が広がってほしいと思った。