中村桃子『<性>と日本語』がすごいわけ

中村桃子『<性>と日本語―ことばがつくる女と男』は、ことばと性の研究パラダイムを塗り変える書である。わたしは、寿岳章子著『日本語と女』がレイコフの『言語と性』を超える書だと気づいた時以来の衝撃を感じつつ中村の本を読んだ。中村本のすごいところは、「人間は女か男のどちらかだ」という「二者択一のジェンダー異性愛規範を強力に支えている文化的装置である」(p.96)とみなす。つまり、「男と女は異なっている」必要があるのは、異性愛制度を成立させるためなのだと言い切っている。「人間は男と女のどちらかである」という私たちの信念はそれぞれの時代や国家、経済のしくみに適合した形でいかに作り出されているかをこれでもかこれでもかと示してくれているという点ですごい本なのだ。

「男と女は異なっている」を下支えするのが、東京の山の手男性が使っていた方言を「国語=標準語=正しいことば」と決め、それ以外の「方言」や標準語の「女ことば」を「劣ったことば」とみなす階層秩序であると述べるのだ。

そしてその階層秩序は、日々変化している点も見落としていない。終身雇用、年功賃金が崩れた今、「おれ」「おまえ」という上下関係に基づいた密着した親しさは若年男性にとってはかっこわるいものになっていき、対象と距離をとることで優位に立ったり、上下関係ではなく微妙な親疎関係を表現する敬語を使うようになっている言葉の変化を活写している。
 

話し手を<女>と<男>に明確に区別する言語資源を持っている日本語は、「人間は女か男のどちらかである」という社会的通念を日常的な会話において再生産することで異性愛規範を支え続ける強力な言語的装置としての側面をもっているのである。( p.96)

私たちが日常使っていることばによって異性愛制度が維持、再生産されているさまを翻訳のことば、スパムメール、ハーレクイン・ロマンスなどさまざまなメディアのことばを例示して明らかにしているのだ。

 さらに、終章「創造する言語行為」では、少女が「ぼく」を使うわけなど、異性愛規範と折り合いを付けながら、自らの新しい存在を打ち出していく言語行為をも拾い出している。「正しい日本語」論がいかに抑圧的な言語行為であるかの批判も忘れていない。さまざまな意味できわめて重要な指摘をしている書である。その上、この上なく読みやすい本だという点でもすごいなあと感心している。

 簡単にまとめることはできない幅の広い内容なのだが、以前「オネエことば」について書いた時にわだかまっていた、ことば、ジェンダー異性愛三者の関係について述べている箇所を引いておこう。

なぜ、異性愛のエロスを表現する言語資源が必要になったのか。それは、「異性愛」というものがほっといても存続する「自然な」性愛の系値なのではなく「制度」としてつくられたものだからである。(p.88)

2.異性愛はことばに宿る

人間はだれでも女か男のどちらかで、男女が互いに惹かれ会う異性愛は自然なことだと考えている人は多い。しかし、人間のセクシュアリティはこのように単純ではないことがさまざまな分野の研究によって明らかにされてきた。

たとえば、古代ローマで使われていたことばを見てみると、現代とはまったく異なる性的区別が行われてきたことが明らかになる。現代ヨーロッパで主要な性的区分である「異性愛/同性愛」ではなく、「能動性/受動性」によって区別されていたのである。
古代ローマの「能動的」セクシュアリティとはペニスを用いて、ヴァギナ、肛門、口の三カ所に挿入することをさす。三カ所の部位のどこに挿入するかによってその人物には異なる呼び名が与えられている。一方、「受動的」セクシュアリティにも、三カ所の身体部位のどれに挿入されるかによって呼び名が与えられている。その結果、当時の性的区分は、現在の性的区分である「異性愛/同性愛」とはまったく異なる・・(同書p.89の表)のような体系を示していた。
ここで興味深いのは、「受動的」人物は女性に限らないという点である。しかも、この体系では、「能動性/受動性」が性的区別の基準なので、男性同士の行為も「同性愛」とはみなされず、男女の行為も「異性愛」とはみなされない。基本的にはペニスを所有する男性が能動的で女性は受動的であるが、ヴァギナに奉仕する男性は受動的(cunnilinctor)とみなされる。
このような体系を目にすると、生殖を目的とした異性愛が「自然」なものであるという考え方が、人間の場合には当てはまらないことが明らかになる。私たちは、「靴フェチ」や「萌え」のように、三次元の人間以外に向けた性的欲望があることを知っている。同一の性行為も、人によって異なる意味を持つ。英文学者のイヴ・セジウィツクは、「一人の人間の性器行動を、他の人間の性器行動と区別するには、きわめて多くの次元での区別があり得る」にもかかわらず、その中のただ一つの「選択対象」という次元にもとづく「異性愛/同性愛」の区別だけが広く行き渡っているのは、かなり驚くべき事実だと指摘している(『クローゼットの認識論』)。「異性愛」というのも、多種多様な人間の性的欲望の一形態に過ぎないのである。(p.88-90)

このようにあまたある性愛の形態にもかかわらず「異性愛」だけしかないと思わせるには、「人間は女か男のどちらかだ」という信念を常にそうだそうだと思わせるしかけが必要となってくる。その点で「話し手を<女>と<男>に明確に区別する言語資源を持っている日本語は、常に日常的な会話において「男/女」というしかけを再生産することが容易であり、必定、異性愛規範を暗黙に、無理なく支え続けることができる。とてもうまい仕組みを考えたものである。

この異性愛規範では、女が男ことばを使っても女らしくない、乱暴と批判されるだけであるが、男が女ことばを使うと「同性愛」だとみなされる。それはなぜなのか。「オネエことば」は注目されるが、レズビアンが「男のことば」を使っても注目の現象とはならないことの理由については、次のエントリーで紹介したい。