「ジェンダー・バイアス」「誤った男らしさ・女らしさ」はやっぱり疑問だ

久しぶりの更新である。この間、富山大の総合科目ジェンダーセクシュアリティについてや、CM とジェンダーについて取り上げたり、専門学校のわたしの授業コマにDV支援者グループ「女綱」さんがDVの出前講座をしてくださったりということが粛々と(?)進んでいた。15日には、アメリカ在住および国内在住の方たちと深夜チャットもあり、16日(日曜)には、高岡女性の会連絡会の「女性とまちづくり地域会議 政治・女性・しごと」がありと、報告することが山積みなのだ。

これらはおいおい書くことにして、今日はこの間考えていた「ジェンダー・バイアス」という用語への疑問について書いてみる。DVの原因や背景について語られる際に、しばしば「誤った男らしさ・女らしさの意識」や「ジェンダー・バイアス」が背景にあると説明される。しかし、問題になるのは「ジェンダー・バイアス(誤った男らしさ・女らしさ)」というより、異性愛主義による二元的な「女/男らしさ」規範の方ではないかと思う。

その理由の一つは、一部の人が誤った「男らしさ」意識を持っているということで済まない問題が横たわっているということだ。理由の二つ目は、「ジェンダー・バイアス」では、個人レベルの意識だけになり、問題解決に到達できないと思うからだ。

これは、前エントリーで書いた中村桃子さんの『<性>と日本語』を読んで再認識した点でもある。問題は「誤った個人の意識」「偏見」というレベルのことではなく、性についてのステレオタイプ化された世界観や規範が広く浸透し、それが「常識」として共有されていることである。この性についての「常識」というのは、世の中の性規範のことでもある。例えば、男性が「強い、大きい、かたい」、女性が「弱い、小さい、やわらかい」、あるいは、男性が「能動的、攻撃的、暴力的」に対し、女性が「受動的、献身的、非暴力+的」とそれぞれが特性を持っているという考え方のことだ。

他にも、「男は文明、理性、進歩」で女が「自然、感情、伝統」という二分もある。それぞれは別に差別でもなんでもなく、単なる傾向だと言い逃れられるようなことだが、これらがあれこれあいまって結局は、「男は無徴・標準・中心であり、女は有徴・例外・周縁」という階層として理解されているのだ。中村さんは、「女ことば」も、「男女の区別や異性愛を自然で当たり前なものに見せかけるさまざまな装置」の一つだと述べている。中村さんの本は、具体的に文化現象の二元的構築をこれでもかこれでもかと示している点が画期的だと思った(中村桃子『<性>と日本語』三章セクシュアリティと日本語、参照)。

これらのステレオタイプ化された「女らしさ・男らしさ」が問題なのは、「<男>と<女>というジェンダー自体が非対称な支配関係にあるゆえである。だから、これもDVでいう「力と支配」の一部でなかろうか。DVにおいて暴力の目的は、殴る蹴るということ自体にあるのではなく、「相手を自分の思い通りにする」ことにあるとすれば、それは異性愛における女役割、男役割と密接につながっていると思う。

ジェンダーの中では、<男>が「無徴・標準・中心」であり<女>は「有徴・例外・周縁」に位置づけられている」という階層関係にある(中村2007:104)。しかも、男と女が違っているというその表され方には、さまざまなパターンがあるが、いずれも、それぞれがまったく反対の特性を持っているという考え方にむすびつく。そしてそれらは「男性中心、女性亜種」という考え方(「常識」)につながっている。これは一種の文化的な「支配」といえよう。

このような男女二元論的文化支配についての指摘は、近代啓蒙主義批判や二元論批判として(例えば、フォックス・ケラー『ジェンダーと科学』、ヘックマン 『ジェンダーと知―ポストモダンフェミニズムの要素』など)哲学や倫理、あるいは社会思想やフェミニズム理論としては数多く書かれている。

しかしながら、DVやセクシュアルハラスメント、その他もろもろの具体的な問題事象になると、これらの文化支配について指摘されることは少ないように思う。そしてこれらに代わるのが、「ジェンダー・バイアス」や「男らしさ・女らしさの意識」といった「意識」である。どうしてこのようなおかしなことになっているのだろうか、疑問である。


実際的な文化問題を論じるに当たって、文化的な制度やしくみについては不問に付されてしまうのは見過ごせない。これでは、まるで理論と実践が別のものとなる。それぞれ異なる原理や理論があるかのようではないか。

DVなど性差別の解決には、「男が主、女が従」「男は頭、女は手足」「男は強い、たくましい、女はか弱く、やさしい」「男は稼ぎ手、仕事、女は世話をする人、家事・育児・介護」「男は能動的でたくましく攻撃する側、女は受動的で献身的に尽くす側」といった性についての世の中の「常識」が、手強い壁となっているのではないだろうか。単に一部の古い人の「意識」「ジェンダー・バイアス」を変えて変わるようなものではなく、広く社会の根本原理となっている二元論的な近代主義全般がターゲットになるはずである。世の中の「常識」というか文化規範とどうタックルするかを考えることが肝要と思われる。

だから、DVを「力と支配」の問題といいつつ、一方で「ジェンダー・バイアス」、個人レベルの意識が強調されるのは困る。男女共同参画社会についても、「女らしく・男らしくにとらわれず、自分らしく」といった「意識」が強調されているので、ただでさえそっちに流れがちであるから余計にそう思うのだ。

しかし、この「ジェンダー・バイアス」ということば、DVにとどまらず一般に「司法におけるジェンダー・バイアス」などと弁護士や法学者によるよく使われているようだから困る。例えば、ネットでみても第二東京弁護士会・ジェンダーバイアスとは などすぐヒットする。他にも、熊本県のサイトにも、「司法におけるジェンダー・バイアスを克服するには、ジェンダー・バイアスからジェンダー平等へという意識の改革が必要と思われる」という主張があげられている。司法におけるジェンダーバイアス。司法の領域で「法とジェンダー」「ジェンダー法学」が盛んであるが、なんでも意識と結びつける論理が浸透しているとしたらどうかと思う。

書物に当たってみた。帯に、「ジェンダーの視点から法制度を検証した待望の書!」、「法科大学院テキスト対応の注目の書!」とある、吉岡睦子・林陽子編著『実務ジェンダー法講義』(2007年、民法研究会)ジェンダーと法についての総論で、「ジェンダーの発見」という見出しで、1。「生物学決定論からの解放」、2「社会的変化の中で」、3「真の自由はジェンダー・バイアスをなくすこと」という項があがっている。そこでは、障害者のバリア・フリーが挙げられ、その類似として、ジェンダー・フリーについて次のように紹介されている。

男女についても、性にとらわれない自由な選択が可能な社会を、ジェンダー・バイアスのない社会と呼ぶことができよう。性別分業や男らさしさ、女らしさの行動規範にとらわれないで、すなわち社会的性別がなく、自由な選択ができる社会、これがジェンダー・バイアスのない社会である。日本では、このような社会を男女共同参画社会として、その形成を積極的にめざすために、1999年に、男女共同参画社会基本法が制定されている」(吉岡睦子・林陽子編著『実務ジェンダー法講義』民法研究会、2007年:8)

わたしたちは「社会的性別がなく、自由な選択ができる」社会を望んでいたのか? それが「ジェンダー・バイアスのない社会」といえるのか? また、個人が「男らさしさ、女らしさの行動規範にとらわれない」で行動することはいいことだし、そうした個人レベルの意識が重要でないとはいわない。しかし、真に取り組み、問題にすべきは、社会の意識ともいえる、社会の根本的な思想、論理の方であろう。にもかかわらずそれがみえづらい。個人の意識だけが指摘されてそれでよしとする風潮では困ると考えている。


以前もこれについてひっかかり、DVとジェンダーというエントリーを書いている。

DVが起きることについては、力と支配(パワーとコントロール)の原理があること、性差別社会であること、男らしさ・女らしさ(ジェンダー・バイアス)の問題だという説明がなされていた(これは女綱さんだけではなくよくあるものだ)。しかし、これって女子から男子へのDVの説明として十分納得いくものなんだろうか?

もちょっと具体的なことでいえば、解決の糸口として「“男らしさ”や  “女らしさ”といった思い込みに縛られないで、”自分らしさ”を見つけていきましょう」といった説明にひっかかった。以前の講座で見せてもらったアウェアの教材ビデオ「デートDVドメスティックバイオレンス)」でもそういう説明がなされていて気になっていた。