中村桃子さん山川菊栄賞を受賞!

今日午後、女性と仕事の未来館で開催された今年度の山川菊栄賞(第27回)贈呈式に参加してきました。わたしが尊敬している中村桃子さんの『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房に、山川菊栄記念婦人問題研究奨励金(通称山川菊栄賞)が贈呈されました。一言でいうと、中村桃子さんの「天真爛漫なお人柄」(中村さんの恩師池上嘉彦さんのスピーチ)が炸裂して笑いのたえない終始和やかな集まりでした。
写真は、井上選考委員長から中村桃子さんに賞を贈呈されている様子。わたしのカメラに向かって笑ってくださるサービス精神満点の中村さんでした。(本物はもっとすてきです。ピンぼけケータイ写真でごめんなさい!)ひつじ書房のサイトにもっとよい写真があがっています。本についての紹介もありますのでこちらもどうぞ!


最初に、選考委員長の井上輝子さんから今年度は歴史研究が多かったこと、特に占領期の研究が目立ったことなど、28作品の候補作のなかから中村さんの作品が選ばれた経過が話されました。中村さんのご研究は、 「女ことば」を扱っているのだが、実は日本におけるジェンダーイデオロギーの歴史、すなわち国家や天皇制、占領軍などと交錯するその歴史を探究したスケールの大きなものであると話されました。また、言語学の研究が山川菊栄賞で選ばれたのは初めてのことだということでした。次に話された有賀夏紀さんの推薦のことばでは、そのことを更に「言語分析による国家論」ということばでご説明になられ、その点が新鮮であり独創的なのだとおっしゃられました。

そして贈呈式がありました。上の写真がその様子です。そのあとに、中村さんの明るさにぴったりだと思って持っていったささやかなオレンジのバラをその場で渡すことになってちょっとあわてました。3年半まえにコーネル大学で開かれた国際言語とジェンダー学会に招聘された中村さんが「女ことば」イデオロギーの話を講演でなさったときに、この分野をリードする英米の研究者たちがこぞって関心を示し、速攻で質問の嵐となっていたことをちょっと紹介しました(うまく伝わらなかったかと思うのでここで書いておきます)。


そして中村さんのスピーチは、ご本人が「お笑いひとすじ」とおっしゃられるようにほのぼのとしたしかし名調子で観客を沸かせまくりでした。最初は国語学言語学の違いから始まりとてもわかりやすい語り口でした。わたしが印象に残ったのは、「女ことば」とは客観的な事実として存在するものであり、綿々として歴史上存在したということが今もって定説になっており崩されていない。それゆえにこれでもかこれでもかというような詳細な証拠をつきつけないとこの定説は崩せないのだと覚悟して研究に当たったといっておられたことです。本を手にとっていただければそれがいかに細かな資料の掘り起こしによるものかということがわかるはずです。ほんと頭が下がります。また、言語学がなかなか認められてこなかったからこのような形で賞をいただいたのは、言語の研究をやっている者を代表しての受賞だと受け止めたいということも言われてました。


本の表紙にもなった明治時代の女子学生の写真(上述のひつじ書房のサイトに掲載されていますのでご覧ください)では学生は男子学生の袴をはいており、面構えもすごく立派で、「武田鉄矢」に似ていると笑わせておられました。お茶の水女子大で整理されていない資料のなかから一日がかりで探し出したものとかいうことでした。まだ見ていない方は明治時代の女「武田鉄矢」をぜひご覧ください。一見の価値があります。

中村さんは次のようなことも話されました。
1.歴史上ずっと「女のことば」や「女の言葉遣い」について語られてきた。「女ことば」への関心が綿々と続いているのは、女とは何かが言語と絡めてつくられてきた。女らしさが女ことばを使って形成されてきたといえるのではないかと、ジェンダーと言語の関係の深さを指摘された。

2.「女ことば」とは、女が自分の身体から発することばではない。「女ことば」とは、政治や学問にかかわる主に男性たちがこうあるべきだと規定したものである。女たち自身の声は聞こえてこないし、女たちの創造的な言葉遣いはそこには見られない。

3.少女が「ボク」「オレ」「ウチ」などの自称詞を使うのは、「わたし」が異性愛制度のなかに組み込まれ「男性の性の対象となる女」という意味合いをもつゆえに、そうした「女」になる、女のセクシュアリティを引き受けることを拒否して「わたし」を使わないという解釈もできるのではないか。

その後質疑応答もいろいろ興味深かったのですが、またの機会にします。最後に、中村さんの『<性>と日本語』NHK出版の方もまた「女ことば」本よりさらに読みやすく、とてもわかりやすくおもしろい本に仕上がっています。こちらもオススメですよ。ぜひぜひどうぞ。