米騒動話その1ー「主婦」の哀願運動か
昨日の魚津でのフォーラム’08米騒動の第8回研究会は、寒い冬の夜にもめげず3−40名ほどのご参加がありました。慣れない話に四苦八苦する私でしたが、みなさん熱心に聞いてくださり感謝、感謝です。魚津の方達は米騒動についてはアツイのです。主催されている米騒動を知る会には、地元で活躍されている飯田恭子さんや奥野達夫さんがおられる。『米騒動の理論的研究』(柿丸舎)で知られる紙谷信雄さんも来ておられた。後から考えると、私の方が教えていただくことが多い人びとであったのだ。空恐ろしい体験だったのかも。しかし、ありがたいことにみなさん優しく接してくださった。紙谷さんには私が答えられない質問に代わりに答えていただけてよかった。
わたしは主に、地元紙の報道記事をみていただいて話をしました。テーマとしては前回の講師浅生幸子さんの話をうけて、次の3つについてでした。
1.「米騒動」を「女一揆」と呼ぶのは、誇張なのか?
2.米騒動は、主婦の哀願運動にすぎないのか?
3.米騒動は、「立派な」女性運動につながっていないのか?
メインで言おうとしたのは、「米騒動」などというだれがしたのか、どういう意味があるのかわからない「主体隠し」のことばを使うのを少なくとも富山ではやめて、「女一揆」と読み替えようということだった。実際、「女一揆」と呼ぼう!という提案もした。しかし、そのことをわかってもらうには富山の「女一揆の歴史」を語るなどいっぱい説明しなくてはならない。
そこで今日は、「主婦の哀願運動か」という点について書きます。米騒動は、「空の米びつ」や「鍋割り月」などのことばで、自然発生的な「主婦の哀願運動」と言われてきたのは周知の通り。しかし、米騒動は夜起きているんだが、それは一体どういうこと?と昨晩聞いてみた。米騒動が夜起こっていたというのは、あまり注目されていないようで意外そうな顔をされたが、事実である。7月24日報道では、「20日未明海岸において女房共46人集合し役場へ押し寄せんとし」とある。「薄暮7時頃に至るやそれぞれ家を出でて海岸に集合するもの6-700名」という記述や「夜中12時過ぎてようやく鎮静した」などの報道が残っている(これは1918年8月5日の東水橋の女一揆の記事だ)。他にも「夜来、毎夜のごとく集合し」という記事もみえる。中には昼起きたのもあるが、富山湾沿岸地域の米騒動では夜起きたのが多いようである。彼女らは夜中まで、救済を求めてずっと町の有力者や米屋を回って歩いたようだ。事件は夜起きる・・ということか。
なぜ夜か。わたしは昼働いているからだと思う。陸仲仕(おかなかせ)という仕事についている女性が多く米騒動に参加したという。陸仲仕は、荷車などで米その他の荷を運ぶ運び屋さんである。女の人は同じ仕事をしても稼ぎが半分だったとか。それだから理不尽な米の投機に憤るのも無理はない。
長々と書いてきたのは、米騒動の「主婦たち」というのはおかしいということを言うためだ。当時は、生産活動と消費活動が明確に分かれておらず、男性も女性もお金を稼ぐ仕事にも家事にも携わっていた(家事という認識もあまりなかっただろうが)。いずれかが生産に携わり、いずれかが再生産に携わったという専業体制ではなかったのだ。1918年当時「主婦」は、「家庭の中で使用人を司る一家の女主人」か、都市部で勃興していた新中間層(サラリーマン)の妻という意味であったのだ。地元紙 『北陸タイムス』 『富山日報』 『北陸政報』 『高岡新報』などをみても、「米騒動」に参加した女性を「主婦」と呼んでいる記事は皆無であった。では何と呼んでいるか。「女」「女房」「留守宅の妻子等」「(汚苦しい)婆さんたち」「女房連」「女房共」である。米騒動に参加した女性たちにしたら、「主婦? それだれのこと?」という感じではないだろうか。
それなのに、戦後の米騒動研究をみると、ほとんどが「主婦」と彼女らを呼び習わしている。呼称にひっぱられて、「主婦の哀願運動」などとさげすんだ見方がされるのではないだろうか。戦後の米騒動研究者や米騒動報道が、現代的価値観で「女と台所」を直結させたのだ。中村桃子さんのことばを借りれば、(米騒動)「について語る」言説のイデオロギーが問題なのだ。それによって、米騒動にかかわる女は変革や変動とは無縁というイメージも付け加わってしまうのでと問題なのだ。というわけで、最後はジェンダー言語研究に落として今日のところはここまでにします。