米騒動の話その3 米騒動と「女性運動」

米騒動の話その3です。コメント欄でさっそく、appuappuさんから「3.米騒動は、「立派な」女性運動につながっていないのか?・・・は、どうなのでしょう? 彼女たちとフェミニズムとは、どうしてもワタシの中で結びつかない。続きのエントリー待っています。」とつっこみが入りました。「わたしが「女性運動」と書いたのに、appuappuさんがフェミニズム運動とのつながりを連想されたことについてはひとまずおいておく。

わたしが今回このような問いをあげたのは、前回の講座では「『男は仕事、女は家庭を守る』という考え方の強い地域で起きた騒動が、女性の地位向上や政治的闘争へと発展する可能性はもともとなかったのである」(浅生幸子『北日本新聞』1998年7月24日)ということが話されたということを聞いたからである。また、会場からもそれについて、「これだけ世の中を動かす動きをしたその後、女性たちが立ち上がっていないのはなぜなのか」という声があがったとも聞いた。これだと、女性一揆は、結局、「その場限りの大したことのない女のうごめきにすぎなかった」ということになりかねない。要するに、これまで地元ではこんな「お上にたてつくようなことをして・・・」と米騒動を起こした女性たちのことは恥ずかしくて口に出せないことだったのだそうだ・・・。わたしは、それは違うだろうと烈しく思ったのだった。

そして、わたしが当日話したことは、第一に、当時の富山湾東部地域では「『男は仕事、女は家庭を守る』という性別役割分業はなされていなかったのではないだろうかということだ。「米騒動の話その1」にも書いたように、当時は、生産活動と消費活動が明確に分かれておらず、男性も女性もお金を稼ぐ仕事にも家事にも携わっていた。「女と台所」を直結させる発想はむしろ戦後近代的なのであって、大正時代の富山湾沿岸では、女性も家事労働だけではな、陸仲仕などのように男と変わらない生産労働をやらないと生活できなかっただろう。


第二に、したがって、女性の地位向上や政治的闘争へと発展する可能性はもともとないとはいえないということだ。わたしは、その後、仲仕の女性たちが次なる課題解決に女性運動を興すことはなかったかもしれないが、間接的に他の女性運動を再興させることに大いに与したと考えている。「わたしが動けば世の中変わる」という実感は、富山の女性たちは救済策がとられて米が提供されたり、米の値段が下がることで感じることができただろう。また、他の人びとも「行動を興せば世の中動く」という実感は、寺内正毅内閣が倒れ、原敬内閣ができたことなどから感じ取っていたことは疑いない。

米騒動ののち、1919年ごろから労働運動を先頭に、農民運動・婦人運動・部落解放運動・学生運動がいっせいに急速に発展し、その闘争性を強め、自然発生的なものから目的意識的な組織的なものへと質的にも移りはじめる。(中略)こうした社会運動・階級闘争の一斉発展の跳躍台になったものが米騒動である。これまでくわしく見てきたように、各階級各層の勤労民衆がこの騒動をへて、じぶんたちの力の自覚をふかめ、権力の本質を見抜き、階級的な見方をおのずから学ばされたということが、ロシア革命を正しく理解する素地ともなり、いっさいの社会運動を成長させる肥料ともなった。この歴史的意義はいくら高く評価してもしすぎることはない。しかし、米騒動がその後のいっさいの社会運動の出発点であったということをあたかも農民運動や部落解放運動は騒動のあった地域が中心になったとか、騒動に参加した労働者の中から進んだ階級運動の指導者がつくられていったとか、というように理解してはならない」(井上清・渡部徹編『米騒動の研究』第五巻、有斐閣、1962 :295-296)

このように、富山の女性たちが立ち上がることがその後の女性運動や部落解放運動などさまざまな社会運動に力を与えることにつながり、世の中は動いたという見方が一般的である。米騒動を見ていた多くの民衆が自分たちに政府等を動かす力があるということに気づき、またどのように動くと世の中に影響を与えられるかを学んでいったといえよう。したがって、「女一揆」の女たちは、次なる女性運動へとつないでいったのである。

ただ、この問いには毒がある。わたしは皮肉を込めて「立派な」とかぎかっこをつけていた。一般に、米騒動は、「女性の地位向上や政治的な権利運動」といった一般に「女性運動」という運動とは異なるのだという見方が根強いからだ。予想通り、というか、最後のディスカッションのときに会場で漁師が多い町に住んでいるいう男性の方から、「女性運動」と呼ぶことについて次のような声があがった。米騒動が起きた地元の方であった。

うちのばあちゃんたちはそういう女性運動やってたという感覚なかったと思う。そう呼ばれると違和感をもつだろう。それ(「運動})と呼ぶのは、後から付けたものである。


それはそうなんだけど、、。わたしはこれまで見下げてみられてきたが、女性主導の運動だかられっきとした「女性運動」として世の中的には認知されるべきだという考えであるというようなことをいったが、うまく答えられなかった。そして考え続けた。

終わって会場を後にした車中で、いっしょに帰ったHさんが車を運転しながら、「女性運動といえば即、参政権運動が思い出され、立派な運動だったというイメージでとらえられるのは、女性運動にとっては『わな』だよねー」とおっしゃた。帰路、米騒動を考えつつ、女性運動について真剣に考えていたHさんとわたしだった。

確かに、「米騒動」の女性たちを「女性運動家」と呼ぶと違和感あるだろう。しかし、運動をしていた人という意味でならまぎれもなく「運動家」のイメージが狭すぎるってことだ。同様に、「女性運動」のイメージが権利を主張する「立派な」女性運動としてきわめて「狭く」とらえられていることが問題であると思う。富山で米騒動を実際に興した女性たちすら入らないほど「女性運動」の定義が狭量だというなら、その定義をそのままにしておくのではなく、「女性運動」や「運動」の定義こそ更新するべきである。

女性史が明らかにしてきたように、歴史で見落とされてきた女性を「害のない補遺」(補欠・補足)として歴史に付け足すのは十分でない。単に女性だから子どもがひもじがっているのを見捨てることができずに立ち上がった、といった女性の経験の特有性に注目する限りにおいては、女性史はいつまでもゲットーに置かれたままである。

女性を単に歴史に組み込むだけではなく、「女性たちが歴史に加えられることは、歴史の書き直しを迫ることにもなる。」(ジョーン・W・スコット、アン・ウォルソール2005『たをやめと明治維新』:15から引用)という地点まで到達しなければ十分ではないのだ。(なお、ウォルソールには、日本近世の一揆と女性についての論文があります。日本語になっているようです。確か、『日米女性ジャーナル』19号だったような。)

米騒動における歴史の見直しは、富山の漁師町で「一揆」に関わった女性たちが入っても違和感ないほどにまで「女性運動」の「運動」概念を広げることであると考える。「一揆」に含めることには違和感がなくて、「運動」に含めるのに違和感があるのでは、現代人の目から「百姓」と「おばばたち」「おかかたち」「女房たち」を見下げていることになるではないか。富山の米騒動の女たちがした問題解決は、まぎれもなく社会運動であった。もちろん、女性運動と即つなげるためには、彼女たちが不当な賃金差別に憤っていたこと、それと投機に走る町の有力者たちの不公正な政治とをつなげてとらえ世直しの一環として「舟に米を積み込ますな」と実力行使をしたという証拠が必要だ。そこまでは今の私には手持ちがない。ただ、会場の方が反応されたのは、「運動」ということばの方であったと思う。フランス革命だって、パンがないという食糧騒擾から起きたというではないか。身近なところでの問題解決は世の中の仕組みを変えることと一直線につながっているのだ。米の値段を上げないでくれという運動もれっきとした運動だ。やはり、「運動」や「女性運動」の意味を広げて、身近なものとしていく必要があるのと強く思う。

「女性運動」概念の狭さが問題である。だれもが認めてもいいと思う安心のフェミニズムだけを「運動」の枠内に入れているとしたらどうだろう!? どうしたらそれをもっと広げられるのだろうか。以前「フェミニスト」「フェミニズム」についても同じ事を書いた気がするが、「女性運動」も同じ轍を踏んでいるように思う。対応はいろいろあろうが、せめて当事者は「運動」や「フェミニズム」ということばの意味を決して「狭く」とらえてはならないのだと思う。どんどん広げて、あれもフェミニズム、これも女性運動と拡張していく方がよりよい未来が来るだろう。世の中的に「女性運動」や「フェミニズム」をできるだけ限定的に、狭くとらえ、それからはみ出る人の方が多い、「フェミニスト」というのはごくわずかの極端なエキセントリックな人たちのこと、とする方が安泰であろうから・・・。

男女共同参画センターを拠点として活動している人たちが自分たちのやっていることを「活動」ではあるけど「運動」ではないという人が多いが、そうではなくて、みなれっきとした「運動」をやっているのである。そうやって身近なところから「運動」を広げることからでもやっていくかなと思う。「米騒動」から「女性運動」「フェミニズム」を考えるてみたが、うーん、期せずして「行動」や「運動」を再考することが結論となってしまった。