沖縄米軍事件における「少女」呼称の意味

tummygirlさんがレイプと欲望の否定で書かれている以下のことに同感である。

沖縄の負担について考えないわけではないけれども、積極的に何かをしてきたわけではない。性暴力について考えないわけではないけれども、目につくあらゆる性暴力について発言するなりして行動をしてきたわけではない。そのようなわたくしが、この事件に限って食いついて何かを言うのは、我ながらあまりに下品だと思えて、ひるんでしまう。

うーん、「下品だと思えて」というのはちょっと違うかもだけど、いずれにしろ日頃性暴力に敏感とは思われない政治家たちが「きわめて遺憾なこと」と平気で言ってしまっているのは、macskaさんの「少女に対する性犯罪をきっかけに日本本土におけるメディアの扱いや世論が沸騰するあたりは、少女の性を日本植民地主義と米国植民地主義で取り合っているだけのような気がする」(上記ブログでの引用)というのに大きくうなづきたくなる。

さらに、tummygirlさんのコメント欄でdebyu-boさんが以下のようにおっしゃっているのにも、共感する。

被害者の「無垢」を強調することがその「空気」を生み出すのに加担してしまっているというのは非常に気をつけなくてはならない点だと思いました。そういう意味では、事件への批判が「子ども」が被害者の時に特に盛り上がるということには若干の危惧を覚えます。(debyu-boさん)


性犯罪で無垢性を強調する際に有効に働くのが「少女」呼称であると思う。よってメディアは、「少女」を好んで使う。「中3女子」とか「中3生徒」「女子中学生」を選択しない。「無垢」であるはずの性が冒されたことを強調する表現であることを(意識的か無意識的かは問わず)よくわかって使われていることにわたしは「いやらしさ」を感じる。これは、「援助交際する少女」という時の「少女」に込められたイデオロギーと同種のものだろう。

「いやらしさ」は正確ではないかもしれない。この「少女」呼称に、女を「性のダブルスタンダード」に押し込めようとする「象徴闘争」が仕掛けられていることを、「いやらしい」と思うのかもしれない。このような事件まで利用して性のダブルスタンダードが発動しているのを見る思いと言おうか、、。


報道を見ると、沖縄での「男性米兵の中学三年生への強姦事件」と書いてもいいものだがそうした表現は見られない。実際に目に入るものは、「沖縄での米兵の中三少女暴行事件」や「米兵不祥事」という形であくまで行為者の性別は描かず、被害者の性のみ明示的に描写する報道だ。女性は異性愛男性の欲望の対象であるという性規範がこうした場でも発動している。いや、こうした女性が被害者となる場でもというのは間違った解釈かもしれない。こうした場でこそ、性のダブルスタンダードは維持されるべく発動するというべきかもしれない。

性暴力事件が米軍と日本政府と沖縄の間の政治闘争の場となっているだけではなく、性をめぐるダブルスタンダードが維持・再強化されるという意味でも政治闘争の場となっている。この「少女」呼称を見るとそれが思い出される。それがわたしの「いやらしさ」の原因なのだろう。だから、この事件に限って食いつきたくないと思う一方で、「少女」呼称に込められた象徴闘争の意味については一言言っておきたいと思う。


性のダブルスタンダードは、くせものだ。「少女」の意味は女子にとってとても重い、重すぎる。女を性の対象物とみなす異性愛規範を受け入れれば、れっきとした「大人の女性」と認められる。しかし、性の対象物になるということは、男性によって「犯される」危険やおそれをも覚悟することでもある。そうした性規範が性暴力事件の報道を通して発動していることを当の「少女」たちだって無意識に知ってしまっていると思う。わたしは思春期に摂食障害になっているが、摂食障害の原因がそうした性規範の強制的な発動と無関係とはどうしても思われない。こうした事件を見るとそうした強力な性のダブルスタンダードの発動を感じてしまうのだ。