遅まきながら「国際女性デー」に思う

3月8日は世界中で祝う「女性の日」だった。友人からは、「この日の起源は女性のアメリカのニューヨークで女性労働者が婦人参政権をもとめてデモを起こしたことらしいですね。あれから100年以上たって、政治的な趣旨は段々失われつつありますね・・・」と米騒動と同じ時期の女性労働運動に端を発しているのだし、「ブログでなんか書けば?」とメールをいただいた。確かに、この日は、女性たちの幸せは闘って勝ち取ったものだということを忘れるなよという日だと思う。また同時にそれが「国際女性デー」という「国際・・・」「・・・デー」という欧米と役所の権威を迂回して定着させた感がある命名によって、いまいち「女性たち自身が闘って勝ち取った」ということが忘れられがちだと思う。本来は社会主義系の運動から発した動きであるから日本の役所は敬遠しがちな日ではある。しかし、日本でも運動団体がデモをして逮捕者も出たみたいだ。


名前は体を表すというが、この命名は、1975年に国連がこの日をInternational Women's Dayと決めたことが含意されているのだと思う。しかしこのバタ臭いネーミングにより、「外圧」というか、「役所が決めたこと=安心」というイメージが強まり、権利や幸せは自分たちでもぎとるもの、というメッセージが弱まっている気がするのは残念だ。

わたしが加わっている女性学系の国際学会のMLでもこの日を祝うメッセージがいくつか流れてきた。英国人である学会会長からは、「昨年、この日を祝うというメッセージを書いたら、『女性がまだまだ大変な状況にある地域や国も多いのだから、単純に祝賀メッセージじゃなくてそのことを忘れないように』という返信がいくつも届いた」とし、「女性の置かれた不幸な状況のことを忘れないようにしたい。また実際、われわれが研究しているのはそうした不幸な状況についてであり、研究によって女性の生活やより広くジェンダー関係が向上していることも忘れてはならない」と書かれていた。それに対しても「そうだそうだ」という返事がモロッコから返されるなどいくつかレスが飛び交っていた。その中にイタリアではこの日をミモザの花で祝うといって写真が付いたものがあった。春らしいので写真を拝借した。いずれにしても、私たち自身が何ができるか、を想起する日というメッセージは感じられた。


「国際」と「デー」がそれを邪魔しているように感じられてちと残念ではあるが、「女性の日」は、女性たちが自分たちで権利も幸せももぎとってきたんだという女性たちの主体性を思いおこすと同時に、これまでの大変だった歴史から先達に感謝するために、重要なんだと思う。