日常の茶飯事に人権の折り目を正しく折りたたむこと

この間、市民運動はいかに行政から独立して生活に根ざした主張を堅持し、運動を貫徹していけるかということを考え続けてきた。前のエントリーの国土交通省ネタもそうした視点から危うさを感じて書いたものであった。女たちよ利用したつもりで利用されることのないように、と自省を込めて思っている。

単に行政から距離をとり、離れていればいいのだ、ということを言おうとしているのではない。では、どうしたら国や地方自治体政府に利用されないで自らの活動ができるのか。どこまでが妥協でどこまでがいいなりになったことになるのか。利用したつもりが利用されたということにならないにはどうしたらいいのか。

そうした問題関心から戦前の地域女性運動が行政により組織、育成され次第に統合されていく過程を描いている今中保子『日本近代女性運動史ー広島県を中心にして』(渓水社)をぱらぱらみていたところ、標題のことばにぶつかった。

山代巴が戦前の反省から、「ファシズム侵略戦争の嵐に屈服しないーー自我の確立」のためには、「日常の茶飯事に人権の折り目を正しく折りたたむこと」だと述べているという。(山代巴『連帯の探求』未来社

山代巴のことばが教条的ではなく(一見そう見えるかも、ですが)、含蓄の深さ(したたかさ?)をもっていることについては、http://www.kinyobi.co.jp/pages/vol571/fusokukei山代巴さんの言葉。あきらめ、みてくれ、ぬけがけ根性とは。 - Chronos Moonを覗いてみてください。

日常茶飯事に人権をしかも折り目正しく入れていくことは、ほんと言葉ではたやすいが一番難しいことである。ハードルはやはり高いなー。しみじみそう思う。