「ジェンダー」というカタカナ語について語る言説の政治性
前のエントリーで「ジェンダー」というカタカナことばには、言語イデオロギーが関与しているということを書いたらコメント欄で「イデオロギー」という用語を使うことに対してJosefさんから有意義なコメントをいただきました。「言語イデオロギー」については、「言語とは何か、ことばはどのような働きをすべきか」ということについての人びとが語る言説・見方あたりでどうだろうか。
その後つらつら考えたのだが、前エントリーで言いたかったのは次の3点ではなかっただろうか。(まだ不確かではあるが、、)
- 「ジェンダー」にまつわる事実が政治的であることと同じくらい、「ジェンダー」という外来語を使う行為も政治的である。
- 「ジェンダー」に関連した社会現象の政治性を検討するなら、「ジェンダー」というカタカナ語について語る言説の政治性も対象とすべきである。
- 「ジェンダー」というカタカナことばには、「海外で使われている概念を日本に輸入し、その後の展開を含めて海外での使用状況やその意義をきっちり押さえているということをもっ『専門的な知』が成立している」という背景を(意図的ではないにしろ)活用している。
まとめるなら、「ジェンダー」を日本でカタカナ語として使う際には、その背景にある欧米の文化および、欧米での学問知をも資源として活用しうること(滑り込む可能性があること)、および日本社会における「カタカナ語」についての見方もプラスになったりマイナスになったりしてつきまとうことも考える必要があるだろう。すなわち、「ジェンダー」というカタカナ語を使うという行為はそれ自体きわめて政治的な行為であることを忘れてはならない。とりわけ、「東洋における女性の社会的状況は欧米のそれと異なる点が少なくないが、その中でも日本の女性をめぐる諸問題は、早急に研究され解決されなければならない点を数多く含んでいる。」(日本女性学会設立趣意書)という点からは、日本での「ジェンダー」について語る言説が重要な研究課題に含まれるはずだ。
だれが何のために導入したか、なぜどのような反発を受けたかという受容状況をも含めて検討される必要がある。決して、「バックラッシュ派の悪意に満ちた曲解」vs「女性学会の正しい声明」では十分ではない。
かつてウーマンリブ運動を踏まえ、英米の女性学者・運動家は「ジェンダー」を「セックス」とは異る「主題」として別に考察すべき社会現象の一つだと主張するために、日常的にはあまり使用されていない文法性という言語学的用語であった「ジェンダー」を流用したのであった。同様に、現在の日本の女性学は、「ジェンダー」を語る言説を「ジェンダー」現象と併せて考察する必要が生じている。そこに潜む「カタカナ語」についての日本文化の受け止め方や、導入に際しての学問の関わりをも検討すべきなのではないかという主張をしようとしていたのであった。言語を使う行為は政治的な行為であることを忘れてはならないと思うからだ。
カタカナ語「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」を論じる際には、カタカナ語としてそれらの言葉が日本でどのように導入され、受け入れられたか、また人びとがカタカナ語一般についてどのようにとらえているかなどの受容文化をも含めた議論が必要な時期を迎えているのではないだろうか。