「DV被害者は圧倒的に女と子ども」と強弁する沼崎一郎さんの講演

★恋愛と暴力を間違えない方法〜アナタの“常識”は危ない!〜
★講師 東北大学大学院文学研究科教授 沼崎一朗 さん


上記の沼崎一郎さんによるDV防止講演会に行ってきた。富山のサンフォルテで行われた「恋愛と暴力を間違えない方法〜あなたの「常識」はアブナイ〜」は、いろいろとつっこみどころ満載のお話であった。もっとも気になったのが、以下の3点であり、それらを質問した。1)世の中には異性愛しかないかのように男女の恋愛のみが語られていたこと、2)「被害者は圧倒的に女と子ども」と「男性から女性への暴力」を前提にしていること、3)「すべての暴力はDV」と主張し、どこまでがDVになるのかの境界線を示さないことである。例えばメールチェックはすべてDVになるのか、、、ということである。


1)男女の恋愛だけしか語られなかった

実際世の中で10%程度の割合で(中には20%以上というデータもある)同性愛が存在するというデータが出ているが、同性愛の暴力についてはどのように説明されるのですかとお尋ねしたところ、「混乱するので同性愛のことは言わない」「自分は異性愛だから異性愛のことだけしゃべる」「同性愛のことは応用できるから」「当事者が話せばいいこと」という説明でした。「同性愛、両性愛のお友達はいっぱいいる。自分たちのことは自分でしゃべってねという」とか。それだったら、異性愛女性に向けてわざわざ「ささやかな女性の自立のお手伝い」とかいって女子学生に教え諭すのは余計なおせっかいだなと思ってしまった。沼崎さんは『「ジェンダー論」の教え方ガイド』という本で女子学生に教えていることについて書かれているのだ。これはわたしは読んでいないが、id:yamtomさんが多様性への考慮が欠けた沼崎一郎『「ジェンダー論」の教え方ガイド』と批判されている。


異性愛男性の立場に立つのならば、女性に「恋愛と暴力を間違えるな」と講演するよりも他にやることがあるだろう。でも、講演では異性愛男性のサイドに立つといいつつ、「自分」は世の多くの暴力的な男性とは違うことを強調しておられた。「平和な男」、「子育てする男」が暴力しない男なのだという説明であり、ご自分がそれに当てはまるということを言いたいみたいだった。しかし、当事者サイドに立つといいつつ、自分だけは加害者にはならないというのは「当事者側に立つ」というスタンスが恣意的に使われているではないか。というわけであちこちで整合性に欠けたお話であった。当事者を強調するのであれば、異性愛男性に多いとあれほど力説されたDV加害者のことに専心してもらえるとありがたい。女に向かって話すことの方を優先しておられるように見えるのはどうよと思った。
それに、異性愛のケースを同性愛に応用できるのだろうか。「なぜ男は暴力を選ぶのか?」という本を書いておられるようだが、レズビアンの場合に「男らしさ」の問い直しを応用として使うことはできないだろうし、どう応用するのかわからない講演内容であった。単に、「同性愛、両性愛のお友達はいっぱいいる」と自慢げに言われても説得力はないし、言い訳に使われた形のセクマイの人たちはどう思うのだろうかと感じてしまった。


2)講演の中では、「被害者は圧倒的に女と子ども」とおっしゃっていた。

「男性から女性への暴力」を前提にしていることであるが、講演の中で「被害者は圧倒的に女と子ども」とおっしゃっていたように、沼崎さんは「男は加害者、女は被害者」という話しに終始しておられた。そこで、会場で配布されていた富山県が行ったDV調査(2007年)報告の概要をみても、女性被害者が21.9%に対し、男性被害者が9.3%とあり、男性被害者が約半数近くもあるが、それはどのように説明をつけるのかと質問した。沼崎さんは、「怖がらせて操るのは男の方だ」「女はそうではない」というような説明をされていたように思う。たまたまこのデータはそういうのが出たが、世の中で深刻なのは女性被害者だという主張をしたいみたいだった。しかし、これはデータの恣意的な活用と説明である。沼崎さんの講演参加者は、同時にこの富山県のDV調査報告も配布されて手にしているのだ。男性被害者も半数いるという歴然たるデータを手にしている。それを否定する説明を根拠なくされても説得力がない。もちろん、こうした男性被害者の割合がゼロではなく、女性被害者の半数程度など無視できない数に上るのはなにも富山県にとどまらないことはよく知られた事実である。

沼崎さんは、男性の若者の方が、性格やタイプに女性よりも幅がかなりあるという話しもされていたが(その話しの信憑性はわからないが)、それだったら男性が被害者として半数いるということに納得のいく説明をする必要があるはずだ。いつまでも「男らしさ」「女らしさ」が問題であるとか、性別役割分担意識が問題であるとか「男だけが加害者」説をオウム返ししていて事足りることはないはずだ。それでは納得できないという声にも真摯に応えていく必要があるのではないか。後で聞いたことだが、その説明をこそ待っていたDV支援活動をしている方達に、沼崎さんのDV講演は物足りなさを感じさせたようだった。沼崎さんが専門家としてDVについての講演をされるのであればこれについても適切な説明が提示されてしかるべきだと考えたが、まったく説明する気はないという態度であったのには驚いてしまった。


3)「すべての暴力はDVです」

講演の冒頭で、「彼(彼女)といっしょにいないと心配になり、携帯に電話したり、メールを入れずにはいられなくなる」「彼(彼女)にはいつも私だけを見ていてほしい」「彼(彼女)に対して大声を出したことがある」・・・という設問があり、それに「はい」と答えるようなのは「恋愛と暴力を間違えている」ということにつながる説明がなされたように思った。でも、大声を出すのが常に脅迫とも限らないだろう。「いつも私だけを見ていてほしい」って願望でしょう。そう思うこと自体を「束縛」と決めつけるのはどうなんだろうか、などなど疑問が募ってきた。そこで、質問した。DVになるならないの境界線はどこに置くのか、と聞いた。すると、「すべての暴力はDVです」という答えにならない答え。「どこまでが暴力になるか」という質問だったのに。。。「なぐったりけったりする暴力はすべて暴力なのです。どこからどこまでが暴力でどこからどこまでが暴力でないということはありません」というようなお答えだった。一方で、沼崎さんは、「自分が強いのをいいことに、相手を怖がらせ、相手を言いなりにさせる、それが暴力」とまとめておられた。それなので、女は恐くて恐怖に感じるけど、男はそんなことはないとかおっしゃるので、境界線は「怖がらせて操る」ということにあるのですかと再度聞いたらそれは違うと否定された。


「相手を怖がらせ、相手を言いなりにさせるのが暴力」という定義を一方で出しつつ、大声を出すこと自体が束縛とみなされるってちょっと整合性に欠けるのではないか。相互の関係性のなかで束縛と感じることもそうではないこともあるんじゃなかろうか。そのあたりを拡大解釈してプロパガンダをやっても、DVをなくそうという世論を広い層に喚起できないように思った。確かに、熱心にDVに取り組んでおられる女性の一部には受けていたようだから、「なにがなんでもDVを廃絶だ」というような確固たるDV廃絶派は「そうだそうだ」と思うかもしれないが、「うーんDVってなに?」と思っている人をも巻き込むのは無理な気がした。お話の中で「活火山モデル」とか「山火事モデル」とか男が暴力を振るうことの説明で笑いをとっておられたが、「男は加害者、女は被害者」という説明だとご自分だけが加害者にはなり得ないかのような話しは疑問を持つ人もでるだろう。それを回避するために、あえて火山や山火事などDVの例を示すのに、人間以外のメタファーを使っているのかと思ったりもする。


終わってから、DV被害者支援活動をしておられる知人から、質問をした私に、「さきほどのDVの境界線についての沼崎さんの回答に納得されましたか」と聞かれた。わたしは「あなたはどうでしたか」と尋ねたら「わたしは納得できませんでした」とおっしゃった。あの一歩先が聞きたいのだよねという声も少なからず聞かれた。


余談だが、フェミニズムでオススメの本としてベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの』『とびこえよ、その囲いを』が挙げられた。前にここで書いたのですが、あれ、イダさんと同じ趣味なのだと思った。どうしてブラックフェミニストの作品に男女共同参画男達はひかれるのか、わからない。


講演会の後で開かれた沼崎さんとの交流会で「そろそろ後継者をと思っているのですが、人材不足で困っています」とおっしゃっていた。その一方で、「講演依頼はいくつかの市町村をまとめてください」「効率が悪いから」というような発言もされていた。だったら、一人でこなそうとしないで、その一部を若手に回していけばいいのだ。データの恣意的な活用と説明が沼崎さんによってあちこちで繰り返されるのは、男女共同参画にとってマイナスの影響を与える。まずはデータを正確に読んだ上で、男の被害者が女性の被害者の半数ほどにも上ることに適切な説明を加えていただきたいものだ。そういう方を後継者に見つけてくるだけでもいいのではないか。いつまでも「DV被害者は圧倒的に女と子ども」と強弁するのはどんなものか。現実を見据えた説明がないことにより、男性被害者への窓口対応が後手後手に回っている。DV防止の講演が、現実の被害状況のデータと外れた話しをして現実から逃げていてはお話にならないと危惧を感じた。