小林多喜二はなぜ女性にとって近寄りがたいのか

 ノーマ・フィールドさんの『小林多喜二』本の感想をノーマさんに伝えたら丁寧なお返事をいただいた。それについてはまだ考えがまとまらず書けないのであるが、やりとりしている中で一つわかったことがあった。

 それは小林多喜二は、社会でもっとも痛みをかぶせられてきた弱い立場の女性を小説のテーマにしているのに、当の女性にあまり関心が持たれていないらしいということだ。女性にとって近寄りがたい存在らしい。その理由をつらつら考えた。もちろんわたしがノーマさんの本を読むまで持っていたような「プロレタリア作家」って縁遠いという偏見や、同じくそれまで持っていた「拷問死した、共産党員であった作家」というイメージの近寄りがたさが大きいのであろう。しかし、それ以外にも、どうも「階層」というものが関係していそうだと思った。

 わたしはこれまで米騒動の先行研究を見てきて疑問に思っていた。それは、民衆運動や社会主義運動ということで男たちの感度が高いのに対して、日本の女性史や女性学の女性研究者は、(地元の女性史研究者を除いて)だれも関心を示していないことだ。「旅する女性」や青鞜運動などに対しては激しく反応を示す一方、米騒動の立ち上がりの女性のうねりは振り向かれることのない領域としてひっそりと息を潜めてきた。高群逸枝が「米騒動がもった歴史的・社会的意義については、時とともに研究が深められているが、そのきっかけをつくった富山の漁婦たちの事跡は、ほとんど学問的対象とされていない。」と書いたのは半世紀も前だと思うが、男性研究者が熱心に取り組むのと対照的に女性研究者はずっと無関心で冷淡だった。どうしてこんなに関心がもたれないのだろうとずっと考えてきた。

 このたび、小林多喜二のことを考えてある理由に思い至った。多喜二が描く女性は、売春をして家族を支えざるを得ないという地方の貧困層の女性だ。米騒動の女性たちも、「細民=貧民」という「階層」の女性たちである。当時は特にそれが強く認識されていただろう。いずれも、地方の最貧困層の女性たち。都市のインテリ層からみるともっとも遠い「他者」であろう。
 
 現在の日本で本を読める層というのは、人生において貧困層に転落したことがない人たちが大半なのではないか。この不況下で、あるいは現在のグローバルな資本主義体制下で、リストラにあったり、仕事を失うなど一度つかんだ「階層」を瞬時に失って「貧困」に転落するリスクを日々感じながら生活する人びとが増えている。自分の身近な家族をみていてもそれをひしひしと感じる毎日だ。

 しかしながら、これまで高度成長期を経てきた世代は、そうした貧困層への転落をこれまで夢想することがなかったのではないだろうか。「貧困」についてリアルに考えずに済むというのは、歴史的に考えてもまれなことのはずであるのだが、戦後の一時期、経済貧困から右肩あがりの経済上昇を経験してきて、みんなが中流階層という幻想をもってきた。つまり、これまで読書や研究をしてきた人たち、特に女性たちは、「貧困層」になるとか「貧困層」のことを想像するとかというのがリアルに考えづらい経済条件下にあったのではないかと想像する。

 小林多喜二という存在は、日本の女性たちにとって、貧困や死などこれまで考えないで顔を背けて済ましてきたことを強く意識させるものであり、お近づきになりたいとは思わない存在なのではないかと思う。むしろ、そういうことを考えるより、「旅する女性」や青鞜運動の書き物をする女性たちなどと親しく交わっていたい感じだったのだろう。それはよくわかる。わたしもノーマさんが書かれたものではなかったら即座に手に取ることはなかったように思うから。。ノーマさんの書かれた「いま、中産階級の一員として」を読んで、わたしも「階層」に鈍感だったと深く気付かされたのだった。しかも、最初読んだときより、しだいに感じ方が浸透してきているように思う。

 それを裏返すと、『蟹工船』や小林多喜二が今の時代に関心を呼ぶのは、だれもが「貧困」に転落するリスクを感じるようになっているからでもあろう。そうであれば、かつては最貧困に置かれた立場である女性こそ、小林多喜二のよい読者になれるのではないかと思うし、多喜二から汲みとれるものも大きいのではないかと思った。そこにノーマさんの『多喜二』本のおもしろさがあるように思う。

 そのうち、ノーマさんも入っていただいて『多喜二』チャットをするという話もあるようだ。それまでにさらに考えつづけていきたい。