シカゴから帰って、なにをさておいても「おくりびと」・・・

 と今週まで延長して”凱旋上映”している地元の映画館へ走った。しかし、結論からいうと、娯楽としては涙腺うるうるできるよい映画だったが、青木新門さんの『納棺夫日記』を読んだ時のような心への食い込みは生まれなかった。それに、id:cmasakさんがおくりびと、ジェンダー逆バージョン希望で、次のように書いておられるように、男中心の社会を描いている映画ってのもあまりわくわくしなかった要因かもしれない。

銭湯のおばちゃん(吉行和子)にしても主人公の妻(広末涼子)にしても、ことごとく脇役で、一方主人公(本木雅弘)とかその友達、あと銭湯のおばちゃんと仲が良かったおじちゃんなどが雄弁に哲学的なことや内面感情の吐露を語ったりしている。ってかむしろ、そういう男たちの語りが可能になるような仕掛けとして、女たちが配置されているのだもの。ムカつかないわけないよね。

全部逆でもよかったじゃないか、と思う。いや、性別二元論はムカつくけど、それは置いておいて、出てくるキャラクター全部ジェンダーを逆にしてもよかったじゃないか、と思う。広末が主人公で、本木が脇役。銭湯の店主はおじいさんで、その友達の焼き場の職員はおばさん。友達も広末の女友達で、家族が夫と息子。NKエージェントの社長もおばあさんで、事務員は男。それでいいじゃん。

 広末とあの支える役、ちょっといまいち合わないような気がした。「男たちの語りが可能になるような仕掛けとして、女たちが配置されている」だけの役の設定も、映画に力を与えない理由のような気がした。以前、「おくりびと」の滝田洋二郎監督を知らないで誉めすぎたような気がしたので、素朴な意見としてちょこっと書いておく。