無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク

 「WANが東大ジェンダーコロキアムと共催で送る」と銘打った「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」」のライブ中継を途中からみた。会場の予定調和的な雰囲気と会場で見られたヘテロセクシズムを追認する「笑い」にもなじめないものがあった。この日のトーク内容がヘテロセクシズムに満ちていることについては、トークに足を運ばれたid:tummygirlさんの笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめてに詳しいのでそちらをご覧ください。

 わたしは、このジェンダーコロキアムという場が、かつてフェミニズムは分裂含みの「連帯」をめざしているでも異論を書いたように、上野、澁谷さん、ならびにその場に参加している人たちをも含めて非対称な権力関係など存在せず、みな同じ前提に立ち同じ方向をめざしているとでも思っているかのような同調的な場であったことについて違和感をもったことについて書きたい。すでに、山口智美さんが主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」で、ジェンコロが内輪のネットワークの誇示の場になってしまっており、そのこと自体が権威となっていること、その中では多様性や異論といったものは排除されるだろうといった問題点と、それへの自らの関わりについて書いて反省的に振り返っている。

 わたし自身も山口さんといっしょに「ジェンダーフリー」を再考する企画を出した一人であるので、ジェンダーコロキアムという場への関わりは他人事ではない。「ジェンダーコロキアム」で検索をかけると東大ジェンダーコロキアム集会「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というわたしのブログがトップに上がってくる(企画した集会については、「フェミニズムの歴史と理論」サイトの2004年12月16日 東大ジェンダーコロキアム集会報告にテープ起こしした内容をあげているので、ご覧いただきたい)。この事実からみても、山口さんとわたしが企画したジェンダーフリー問題から女性学を再考しようという集会が上野さんの主宰する「ジェンダーコロキアム」をネット上で宣伝する効果をもったようである。山口さんが言われるように、わたしたちがネットに当時話題になっていた「ジェンダーフリー」に関する議論を掲載したことが、「「ジェンコロ」というものが「権威」をもちうるイベント」となりうることを、意図したわけではないが、結果的に示すことになってしまった気がする。上野さんが今回自らの書評セッションに「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」という題をつけ、WANを通じてネット中継や動画配信をし、ジェンコロ企画を世に宣伝しようとされたのも、もしかしたら、過去に100人を超えるお客が集まったわれわれの企画提案の実績が影響しているという見方もできるかもしれない。それを考えると、わたしたちが安易に上野さんに提案したことを反省せねばならないと思う。

 当時は上野さんの立場が「ジェンダーフリー」概念を批判的にとらえていると思われるものであったゆえに上野さんのところに持ち込んだのであったが、その後福井県福井県生活学習館でジェンダー関連図書が一時撤去された際やつくばみらい市でDVに関する講演が中止になった事件などにおいて、女性学者・女性運動の連帯を自ら率先して誇示するかのように先頭に立った活動の軌跡をみると、あの女性学者主導で進めてきた男女共同参画運動を再考するというわれわれの集会意図もすっかり吹っ飛び、いかようにも誤解されかねない危うさを孕んでいる。

 そして、ジェンダーコロキアムでの上野さんと澁谷さんの語りを拝見して、そもそもジェンダーコロキアムは私たちが提案したような、フェミニズム運動のあり方を論ずる場ではなかったのかもしれないとも感じた。自分の立ち位置には、ビジネスが絡まない限り、上野さんらはおよそ興味がなさそうだった。上野さん、冒頭から澁谷さんに「どれだけ売れたか」とビジネスモードであり、澁谷さんも嫌悪感を示すことなく積極的に話題にのっていく。その一方で、お二人の話にたびたび出てくるのが現在の日本社会における格差とか男子の就業の大変さなのであるが、労働問題や、経済問題には一向に突っ込んでいかないもどかしさ。正社員や正規の仕事を得られなくて大変な男子が出てくるが、彼らに興味があるのは、「仕事もなく、モテナイ男」であることだけだ。それじゃ、単なる「ネタ扱い」でしかないってことだ。

 上野、澁谷さんとも、バンバンの正規職に就いておられることだし、「おちぶれることを想定できない」立場だろう。Ohnoblog 2で書かれているように、大学の先生という「地位も金も文化資本もある強者の女が、金も女もない若い男には「弱くてもいいのよ」「女なんかなしでも生きていけるって」と、年老いて弱気になった男には「誰でも弱いものよ」「変なプライド捨てて女と助け合いなさい」と呼びかけているわけだ。」 上から目線で「非モテはいかにして生きていくべきか」とか「男おひとりさまは老後をどう生きるべきか」と教えられる方はたまったもんじゃないなと思った。「救いになればなあ」「純粋に楽になっていただきたい」と無邪気に語る姿に、フェミニズムは自分の立ち位置に敏感であったはずなのに、これはなに?と思った。そういう「ダブルでつらい」男をネタ扱いとし「ターゲット読者」としてビジネスしていることに心の痛みを感じないんだろうかと思った。しかも、あのトークは東大の教室を超えて、WANを通じてネット中継や動画配信をしている。それを知りつつ、お二人が自らの立ち位置についてそこまで無自覚に振る舞えることには驚かざるをえない。

 もっと驚いたのは、澁谷さんも上野さんも、自分の本に対する反応が「大絶賛」だと自慢げに話されていたことだ。澁谷さんは「ターゲット読者からはもう、大絶賛でした」とか「介護労働をしている男性からは、「すばらしい、バイブルだ」と言われたという。上野さんも男性からも澁谷さんも好意的な感想しか耳に入らないようなじゃダメじゃんと思う。自らへの批判が耳に入らないようになっているとしたら学者としてはまずいことなのではないかと思う。とりわけ、上野さんがフェミニズム研究を代表するかのような立場にあり、しかも東大に職を得ていれば利用しようという人に不足はないだろう。ジェンダーコロキアムには編集者の参加も少なくない。そうしたポジショニングにおられるのに、いい話しか聞こえないことを恥ずかしげもなく言われるのは、自分の足下がみえない、反省的な視点がないこととして気になった。ジェンダーコロキアムがこんなに自らの権力性に鈍感な場であっていいのだろうかという疑問がふつふつと沸き上がった。そして、個人に向けた「啓蒙」をしてきた男女共同参画系の啓発事業と同じ方向性を上野、澁谷さんの話しには感じた。食えない男やモテナイ男に「提案」という名の啓蒙をするのは社会学者やフェミニストのやることなのだろうかと疑問に思った。

 それと、澁谷さんは成功したビジネスモデルとして上野さんをよく研究されていることよとしみじみ思った。「ヘテロセクシュアリティ研究」というテーマ、ファッションの打ち出し方、マーケティング手法など、上野さんが世に打って出て成功を収めたワザを学び取って、それを今の時代や状況に添って半歩進めた形に転換して打ち出しておられる。『セクシィギャルの大研究』や『スカートの下の劇場』などシモネタ風打ち出しで注目を集めた上野さんに対し、澁谷さんは「童貞」や「包茎」とさらにきわどいラインをねらう。そして、ポシェットを肩から掛け学者らしくないファッションで学会に登場して注目を集めた上野さんに対し、澁谷さんは「着物」というより人目を惹くより強力なカードを使う。伝統的かつ「保守的」イメージが強い着物姿で「童貞」や「包茎」を語るフェミニストっていうギャップが話題性を呼ぶだろうということなのか。上野路線を手堅く継承しましたということが誰の目にもよくみえる戦略である。「弱者カテゴリーに置かれている人たちをなんとかしたい」という言葉にも驚いたが、エリート教員として非モテ若年男性弱者に向かってそういう言葉を吐けることにも違和感を感じた。ジェンダーコロキアムという場は主宰者が自覚的かどうかに関係なく、日本のフェミニズム研究を広く世間に知らしめる場として機能している。上野さんを成功モデルとして東大でフェミニスト教員たちが育ち、ジェンダーコロキアムが「権力に鈍感なフェミニズム研究」を成功モデルとし、スポットライトをあてる場となっているとしたら、お二人にとってフェミニズム研究というものだって、成功への単なるネタか手段にすぎないのだと思った。こういう場でフェミニズム運動の方向性を論じようなどとかつて思ったのはとんでもない見当違いだったと、このたびのトークをビデオ視聴して思った。

 さらに、WANとの「共催」ということだが、共催って何を共に企画したのだろうか。共催とは、「二つ以上の団体が共同で一つの催しを行うこと。」(デジタル大辞泉)だとすれば、これは「共催」と言えないなあと思う。見る限り、東大の上野研究室の課外事業を 「宣伝」をWANが行い、上野と澁谷という2人のスピーカーが話す様子を「動画配信」しただけのように思えた。WANは単にコミュニケーション・ツールとして使われただけのように見えた。WANでは、「IT弱者」(上野千鶴子氏)が多い組織でウェブマスターとして尽力してこられた遠藤礼子さんに労働問題が起きている最中だ。その労働争議については、「WAN争議を一争議で終わらせない - 非営利団体における雇用を考える会(仮)」や、WANの労働争議と、非営利団体内での労働の搾取問題WAN争議ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)とその労働争議WAN ウェブマスター労働争議問題で驚いたこと などで議論されているので知っている人も多いと思う。しかし、そういったWANが当事者である労働問題にはまったく触れないジェンダーコロキアムのWAN共催による新春企画であった。これじゃ、上野研究室(実質、上野さん)が「女性運動をつなぐ」ことを目的としているWANを自分の(授業ではなく)事業の宣伝に使っているだけといわれても仕方がないのではないだろうか。WANでは労働争議が起きているのに、そのWANとの共催であるというのに、「食えない」問題は単にネタにされるだけ、フェミニスト学者はそれを商売にするだけだということがまかり通っていることに大きな義憤を感じた。

 会場からは、上野、澁谷さんに対して、上であげたような語り手の権力性への自覚はどうよ、といった質問も出なかった。もちろん、労働争議をどう考えているか、といった質問も出ず、表面的には何事もなく予定調和的な結末を迎えた。しかし、その後のtwitter界では違和感が充満しまくった。そのあたりは、同じくこのトークイベントに参加されたそんならわたしは『平成オマンコ塾』でをご一読ください。

 トークでは、上野、澁谷さんは二人とも「私たち社会学者ですから」「私たちは、生きる知恵を教えて差し上げましょうというのだから」と何度も「社会学者」を繰り返しているのが耳にざらつきとして残った。「ジェンダーコロキアム」という場にもかかわらず、お二人とも「ジェンダー研究」や「フェミニズム研究」を名乗ることは少なく、「社会学」を好んで選択していたように思った。山口さんが「蓋然性」や「経験則」というジャーゴンについて論じているが、「社会学」という用語の選択も同じように、「フェミニズム」より政治性が薄く見える分、「客観性」やそれに付随した「権威性」を誇示しやすいために選ばれているように感じた。それでも澁谷氏は「フェミ言説のリニューアル」、「メンズに通じるフェミニズム」をめざしているとも言っておられた。しかし、このような自らの立場性に鈍感で無邪気な語りを「フェミニズム」と呼べることに違和感以上のものを感じた。ジェンダーコロキアムって、いまやフェミニズム・ビジネスを教える場になっているのだろうか。

 東京大学ジェンダーコロキアムという場が、自らの権力性には無邪気である一方、ビジネス成功にはいたく戦略的である方たちがそれを恥じることなく外に向かって公開するトークを行っているということに衝撃を受けている。