フェミニズム運動や研究組織の非正規・無償労働問題ワークショップ

 先のエントリーで書いた女性学会大会だが、20日に「フェミニズム運動や研究組織の非正規・無償労働問題を問い直す」というワークショップを清水晶子・マサキチトセ・ミヤマアキラ・山口智美さんとごいっしょに行った。シンポネタよりそちらの方が本題だと思うので、その報告をしておきたい。このワークショップには、30名余りの参加者があり、ほんと書ききれないほど多くの論点が出た。わたしは、「ボランティア労働と賃動労をどう捉えるか」という発題をしたので、ここでは、わたしの発題部分*1を中心に書いておくことにしたい。

 このワークショップを行ったのは次のような問題意識からである。非正規労働や無償労働、低賃金など、労働の問題は女性学・女性運動やフェミニズムにとって重要なテーマの一つである。その一方でフェミニズム運動や研究組織では、事業・組織運営を行う際に、非正規労働、ボランティア無償労働、きわめて低賃金による労働などを不可避的に組み込んでいる場合が少なくない。そして、こうした運動や研究の内部にある労働に関する構造的問題はいまだ解決の糸口すら見いだされていない。WAN争議も記憶に新しい現在、運動や研究組織にある労働・雇用の問題に一歩足を踏み入れてみる。それにより現状の多様な問題を整理するとともに、現状を変革するその可能性や糸口を探るきっかけとしたい、そうした問題認識を共有できる方と議論したいということであった。

 とりわけ、フェミニズムといえば、かつて「家事」が「労働」であることを発見し、それにより、それまでの「労働」概念が有償労働のみを想定していたという限界を指摘し、労働研究に大きな貢献をしたことを思い起こすことができる。そのようなフェミニズム運動や研究組織が、実は「平場」や「シスターフッド」などのフェミニズム用語によって「自発的」ではなく慣行として、義務化された形で「ボランティア労働」を内部に抱え込みつつ、事業や組織運営を遂行するようになっているとすれば、早急にこの問題に斬り込む必要があるはずだ。

 実際問題、WANをめぐる争議に関連して、賃労働の他に多くの業務が「ボランティア労働」により賄われている現状をどう捉えるか、がウエブ上でもあちらや、こちら、それにこちらなどでも議論になっていた。

 ワークショップでは、まずミヤマアキラさんから、特に、フェミ/女性運動において、平場やシスターフッドなどのフェミ用語により雇用労働環境上の権力関係が見えづらくなる問題が指摘された。次に清水晶子さんは、とくに大学や研究組織において無償労働や非正規労働を半ば自発的に遂行していく構造について話された。

 わたしは、三番目であった。フェミニズム運動に関わって30年なのでいろんな運動体を見聞きし、また、その後参入した女性学では、非常勤教員を15年以上勤めてきた。このように運動と研究の両方の場に関係してきた立場から、先に発題されたお二人の議論を関連づけつつ、「ボランティア労働」と賃労働をどう捉えたらいいか、という問題提起を行った。

 特に、現状として、近年、これまでそれぞれ分かれがちだったフェミニズム研究と運動が混在した形で公共的NPO機関化しているケースも少なからず見られる。そうした中で、ボランティア的労働と賃労働が共存する可能性があり、しかも、賃労働の形態はとるものの、慢性の資金不足から、実質ボランティアとして補充していかなくてはならない逼迫した状況がある。しかもそれをやらねば組織がまわらないことも多い。そんな現状がある中で、具体的に起きているのはどんな問題か、フェミニズムと労働問題として洗い出し整理する必要があると思う。

 問題としてミヤマさん、清水さんから指摘されたのは、フェミニズム運動における「シスターフッド」「平場」などの論理、シャドーワーク(主婦的労働)の低評価&主婦的労働者の待望など(発題1:ミヤマさん)、アカデミック・キャリア上の利益が複雑に絡む問題(発題2:清水さん)であったことを確認した。

 では、 有償労働でまかない切れない部分をボランティアでまかなうのが「正しい/仕方が無い」とする運動体や学内組織のあり方が横行すると、現場はどうなるのであろうか。まず、明らかにしておかねばならないのは、組織内で立場の弱い側に過重な労働が期待されるという構造があることだ。

 理事会が5月13日にNPO会員に向けて、雇用問題についてあっせんによって和解が成立したことを報告する文書では、「経営能力や労務管理力を磨いて優秀な使用者となることをめざすことがWANの目標であってはならないでしょう。使用者ー労働者関係ではなく、サイト運営に意義を感じる者たちの協力によって維持・発展させていく、労働のオールターナティブを模索していくことが必要」だとする考えが表明されていた。*2

 しかしながら、関係者がアカデミアの業界人が多い中では、頼まれると、アカデミック・キャリア上将来見込めるるかもしれない利益も頭をよぎるかもしれない。自発的/強制的の境界線はきわめてあいまいといえよう。また、「シスターフッド」「平場」などの言葉が渦巻くフェミニズム業界での「ボランティア労働」は、果たして「意義を感じ」ての、「自発的な=”ボランティア”」労働といえるのだろうか。疑問である。

 こうした、半ば、慣行化され、義務化されてきた「ボランティア(自発的な意志による)労働」は、今まで、ずっと「運動」の世界、とくに「女性運動」の世界で、「麗しい行為として」半ば慣行化して(それに伴い、ちょっと負担に思いつつも深く考えないようにし、身体を動かすといった身体化された行為として)行われてきたことであった。私たちはこのような運動の過去を自省的に振り返った上で新たな方向へと行動することが強く求められていると思う。

 さらに、「ボランティア労働」権力関係が見えづらくなっている問題がある。その際、近年のフェミニズム界隈では団塊世代以上が突出して多く、またその方たちが大学でフルタイム・ポストをとり、昇進の上、学部長など組織上の地位に就いている方も少なくない。そんな中で学部生や院生、非常勤などにボランティアが降りかかりやすく、断りづらいということは想定できる。背景にある、アカデミック・キャリア上の潜在化された力学にも注意を要する。

 そして、運動や研究組織において、事務労働・シャドウワーク(主婦的労働)は低い評価が下され、「労働」扱いされづらい側面がある。さらに、そうした安い賃金で割の合わない条件の悪い、評価の低い、シャドウワーク的「労働」であることが、結果的に、家計補助的(主婦的)労働者が待望される、主婦的労働者に頼むしかない、という皮肉な構図がある。これでは、「ボランティア労働」が事務労働・シャドウワーク(主婦的労働)の地位をますます低める悪循環となりかねない。このように労働者の権利をダウンさせるとしたら、いくら意義のある事業を行っているとしても、そのアプローチには疑問符がつくのではないか。

 このように弱い立場の者により期待・強要される「ボランティア(労働)」は、「オールターナティブな労働」とは、とても呼べないのである。「ボランティア労働」は、とりわけ、雇用・労働関係上、もっとも弱い立場の者に寄り添った視点からの見直しが求められている。

 その他、問題提起したことは次のようなことである。フェミニズム運動や研究組織においては、「労働」と「運動」の線引きが困難という別の特徴もある。また、実際に、NPO組織では「賃労働」と「ボランティア労働」の線引きが恣意的で明確な基準があるわけではないことも多い現状がある。「善意」が強調されたり、指導教官から「いい勉強になるから」と教育チャンスとして「ボランティア労働」が強要されるケースも生じかねない。「善意によるボランティア」概念が介在することにより、(実際には発生する)「労働」が不可視化されてしまうという問題が確かに存在する。

 その後、山口智美さんの司会、マサキチトセさんのホワイトボードへの論点掲示により、会場からのご意見を伺った。発題者も混じり議論を行った。「ボランティア」が「ボランティア”労働”」となってしまうケースが問題であるという指摘があった。「ボランティア」で自発的と思っているものがほんとに自発的なのか、いや自発的とは思えない部分があるから、気が重い、どってり疲れるのか、「ボランティア(労働)」の内実を背景的な人間関係や利害関係を含めて、捉え直す時である。事業の運営は「カンパ」頼み、事業の運用は「ボランティア」頼みといった、NPOフェミニズム運動の運動体としての運営の総体の次元から、考える必要がある。

 運動組織と研究組織両方の場を議論対象としていることもあり、論点が多岐にわたった。会場からのご意見もたくさんいただき、参考になった。ただ、NPOや運動組織の雇用問題は財政が厳しいところが多く、「ボランティア労働」をどう捉えるか、といった議論をしようというところまで問題意識を持てていないのかなという印象も若干あった。あるいは、学会であるゆえに研究組織内の非正規・無償労働に議論が傾いたのかもしれない。いずれにしろ、関心を共有する方たちと女性学フェミニズム組織における非正規・無償労働問題を考える場を持ててよかった。あまたある課題を整理するという新たな一歩を踏み出したことは確かであるが、どうやったら変革の糸口をつかめるか、についてはまだまだ先が遠い話かもしれないと感じた。

 追記:このワークショップについて、菊池夏野さんが、おきく's第3波フェミニズムで、ワークショップに参加して、ならびに個人より構造というエントリーでコメントしてくださっています。こちらもご覧下さい。(6.25)


 

*1:ただ、発題は全員で議論を重ねてきたので発題者個人の見解とは限らない。

*2:なお、同文書の一部は、理事会文書公開しますに掲載されているが、該当部分は掲載されていない。