看護師の給与が上がったのはどうしてか

先のエントリーで保育士の給与が安いのはどうしてか、を書いた際に、看護師の給与が保育士より初任給で3万円以上も高いことに気づいた。大卒一般事務職よりも1万円5千円以上も上だ。そして、看護師もかつては報酬が低かったそうだが、ある時から現在の程度まで引き上げられたとも聞いたので、今度は看護学校へ出講した際に、「看護師の給与を引き上げることができたのはどうしてですか」「何が影響していると思われますか」と看護師出身の先生たちに聞いてみた。最初はその質問自体にびっくりされたが、教務主任の先生がいろいろと調べて教えてくださった。


そのお話からわたしが「看護師の給与が上がったわけ」だと思ったのは、次の2つのことであった。
一つは、女性たちの現場での実力闘争である。かつて1960年代までは看護師は、月に夜勤が頻繁に回ってきて、しかも夜勤を何十回こなしても、月100円ぽっきりしかつかなかった。上限100円(とんでもない安さだ!)で何回でも夜勤を押しつけられる体制ってありえない、と思う。しかも病棟に夜勤務する看護師はたった1人だけというひどさだ。教務主任の先生は、70年代に看護師になった方だが、先輩から「月何回も夜勤をして、それも病棟に一人しかいないから、一人で大きな酸素ボンベ抱えて走り回ったんだよー」という奮闘ぶりを聞いたものだと言っておられた。一人夜勤状態で、もうめちゃくちゃに忙しいが、そんなひどい待遇でも、一向に改善されない状況だったんだそうだ。月10日以上も夜勤して、しかも給与はどれだけ夜勤をしても100円しかつかないって、なにそれ、というほどの非人間的労働条件である。これじゃ人間扱いされていないとも思える。そして、その窮状は1965年に、人事院により、「夜勤は月8日以内、一人夜勤は廃止」という裁定が下されたそうだ。月8日というのは、週に2日となり、それでも過酷なものだ。しかしだが、その裁定すらほとんど守られなかったというお粗末な実態だったようだ。いわば、無法地帯だったことになる(これ、医学書院の『看護史』198頁にも書かれている事実です!)


その非人間的な待遇を変えるきっかけになったのは、新潟県立病院の看護婦さんが立ち上がったことだそうだ。「月8日以内の夜勤、1人夜勤の廃止」を実施するよう県の病院局に要求し、交渉を続けたのだそうだ。ということは、県当局すら、人事院裁定を無視していたという状況だったということだ。そして新潟の看護婦さんたちはついに、月8日以上の夜勤を拒否し、2人夜勤体制を組むという自主モデルダイヤを組み、実力闘争に入ったのだという。この闘争、ついに新潟県側が折れて、看護婦さんたちの要求を受け入れて、闘争は勝利した。この運動はその後も全国の病院に広がり、「ニッパチ闘争」と呼ばれた。「ニッパチ闘争」は今も語り継がれている闘いの歴史なんだとか。教務主任の先生も、わたしが聞いた時にすぐに「ニッパチ闘争」と口にされていたほどだ。看護の歴史では忘れてはならない運動なんだろう。どこかでも書かれていたが、この闘争のあと、新潟出身だといったら看護婦に採用してもらえなかったということもあったようだ。新潟の女たちが実力行使をしたことが今の待遇改善のきっかけになっているのだ。そして、翌年1969年には、夜勤手当が100円から200円に引き上げられた。夜勤の体制だけではなく、その金銭的待遇も変えさせることになったということだろう。新潟の女たちは強いんだなあ。社会を動かすきっかけを作ったのだ。富山の女性が口火を切った米騒動を思い出した。



もう一つの要素は、政治の世界への進出だ。看護師の職能団体である日本看護協会を1959年につくり、同時に、政治団体である日本看護連盟も創設し、看護師出身の政治家を次々出し、政治的発言力を強めていった。職能団体として、1960年には看護婦の処遇の改善と病院管理の不合理の是正を厚生大臣中山マサに陳情した。1962年の林塩、1965年には、石本茂当選で2人国会議員が誕生。1971年、石本議員の自民党入党後、最初の政府予算案において、看護関係予算が一挙に47%アップしたんだそうだ。1973年には夜勤手当が350円から一挙に1000円にアップした。このように、政治の世界に参入し、さらに政権与党で要職に就くようになり、次第に待遇改善を勝ち取ったということだ。ほんとわかりやすいお話である。先述の医学書院『看護史』にも「看護関係者の国会進出」(194頁)という項がある。1989年に石本茂は24年の参議院議員を引退し、「感謝の集い」が開催されているが、きっとさぞかしみなさんに感謝されたことだろうと思う。なお、石本茂は、石川県出身で富山県の看護師養成学校を出た方という。その後も、清水嘉与子、南野知恵子らの自民党議員が活躍されているようだ(今後は民主党との関係が課題になるのだろうか)。1990年には、看護関係予算により、夜間看護手当が3200円に増額されている。さらに、1995年には、準夜2900円、深夜3300円、交替夜勤6800円(新設)が決まる。夜勤手当の増額は、看護給与本給の増額と無関係ではないので、この間、夜勤手当同様、看護給与や待遇も、倍々ゲームで上がってきたのではないかと思われる。看護師の歴史については、看護連盟のあゆみに詳しい。


以上、看護師の給与が1970年代以降、引き上げられたことに関係しているらしい運動の歴史を簡単におっかけてみた。ミクロには現場での実力闘争が大きな力を与えていること、マクロには政治の世界において、とりわけ、政策決定、予算決定の場で影響力を行使することが大きいことを見てきた。これを保育士の給与・待遇の引き上げに応用できるのではないかと考え、保育士の学校に行って報告した。しかし、保育士の場合はいくつかの厚い壁があるというお話だった。その話はまたの機会にすることとして、今回の看護師の給与の引き上げについては、女性たちによる職場(ミクロ)の運動と政治世界(マクロ)の運動の双方があり、それがもろもろの社会条件や社会背景とも複雑に関わりつつ連動することによって、看護師という職業の地位向上、待遇改善を果たしたのだということが私なりにわかったことである。


実力闘争をした女たちがいた。そして政治の世界に代表を送り出すにも職業現場での活動が不可欠だ。やはり、現場で動きをつくること、それがないと世の中は動かない。現場での一歩からすべては始まるとも思った。