井本三夫、勝山敏一による富山・米騒動研究書の刊行

米騒動研究にとって大きな意義を持つ本が2冊続けて出た。9月には、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』が桂書房から出ている。そして11月に、勝山敏一『女一揆の誕生ー置き米と港町』(桂書房)という本が出たばかりである。米騒動から92年の今、新たに刺激的な知見が提示されたことを喜びたい。


井本さんの『水橋町(富山県)の米騒動』は、魚津から始まったとされることが多い1918年富山・米騒動が「東水橋」に端を発したものであることを、だれがどう動いたかという40年前の詳細な聞き書きを甦らせることによって解明している。


なぜ「東水橋」かという点は、米の積み出し港であり、廻船問屋があり、米の移出商もあった。そこで32貫(120㎏)の荷物を1人で運んでいた力丈夫な「仲仕(なかせ)」の女たちがいたこと、そして彼女らの中に、米の移出商の家に出向いて「米をよそへ出すな」と交渉するが絶対に物に手をかけさせない、警察に弾圧の口実を与えないなど非常に統率力のあるリーダーが何人かいたことであった。すなわち、口火を切ったのが東水橋町西浜町の女仲仕たちであり、組織的で統率のとれた行動をとれたことが成功に至った要因としている。「漁師のおかみさん」だからではなく、「仲仕」だからできた統率力であり、知力、胆力にすぐれた女性たちであったようだ。漁師であってもそれだけの統率力は難しいというほどの采配ぶりだったという。当時は、米さえあれば塩か梅干しで餓えがしのげる時代である。ちなみに、角川書店創始者角川源義は、この東水橋西浜町で1918年米騒動の1年前に生まれている。生家は米屋だったという。


しかも、1918年7月上旬という早い時期からの行動であったことを、参加者が存命中の1968年という年の取材テープから明らかにしている。米騒動から50周年記念に取り組まれた、社会運動家である松井滋次郎氏による1968年時のインタビューを再生させた部分、ならびにその解説が井本本の重要な部分をなしている。というのも、この松井氏が『赤旗』紙上で発表されている貴重な聞き取りの取材結果や取材記録がこれまで多くの米騒動研究から排除されてきたために、こらまで知られてきた史実が偏っていたということがあったようだ。これも研究としてあるまじきことだが、社会運動や政治活動に対する研究者の偏見がなせるわざなのだろう。



他にもいろいろと紹介したい点がある。井本さんのご著書は、富山米騒動研究の決定的な一冊である。1918年米騒動から90年というこの時代に、古いテープに日の目をあててよくぞこれほどの解明がなされたと思う。それと、歴史研究としては、オーラルヒストリーとして大変の労作であることも付記したい。松井氏が、これをしなかったら後に残らないと、社会運動のありようをつぶさに残したいという強い思いから生き残りの方を訪ね歩き、聞き書きをされたことも大きい。また、1980年代以降、この地を足で歩いて回られた井本さんだから、松井滋次郎さんの遺作との出合いがあったのだと思う。井本さんにしても、ごく普通の「おばば」たちの証言を後世に残す意義があるという強い思いがあったからこそ、これほどの豊饒な歴史を甦らせたのだろう。オーラルヒストリーとしても画期となる書だと思った。研究内容と手法については、簡単な紹介しかできていないがいずれも極めて重要な提起をしていることだけは確かである。また、機会を改めて触れたいと思っている。



次に、勝山本である。勝山さんは、米価高騰時に、移出米のうちの一部を難儀の助けにあてるという「置き米」仕法という仕組みが北陸の米移出港で女性たちが起こす米一揆に見られることに着目し、その起源を探っている。そして、明治期佐渡への渡海港として発達し、北前船の寄港地でもあった新潟県寺泊町の町史に、江戸時代、この置き米仕法があったことを発見したというもののようだ。まだこの書を読めていないのでこの内容に立ち入ることはしない。

しかしながら勝山さんは、「はじめに」でわたしの「女一揆と呼ぼう」という主張を引いた、と以下のように書かれている。補足が必要と思われるので、この点だけ、少し触れておきたい。

米騒動のことをこれからは「女一揆」と呼ぼうではないかー斉藤正美氏の提案*があったのは二〇〇八年、私が本書を書き始めた頃である。女性たちの訴えは哀願調で実力行使もない、女一揆という呼び方はお上にたてつくようでふさわしくないとする意見が一部の地元人にあるという。女性たちのそれが哀願ではなく強い抗議であったことをもっと主張せねばならないという斉藤氏に私は賛成である。そういう意味も込めて書名を「女一揆の誕生」とした。

男のするものとされた一揆を、なぜ女がするようになったのか(女性たちは米騒動においてその最初期から導火線的な働きを果たしていたのかもしれないけれど)——まだ誰もその歴史的道筋を指し示していない、これが本書のテーマ。小さな史片も織り込んで一般のみなさんに読んでいただきける書き方を選んだため、史料を原文のまま引用することは控え、江戸期の古文書はもちろん、明治期の新聞記事も多くは現代文に直して記した。再検証できるよう必要な注記は付したので、ご意見をいただければ幸いである。


*斉藤正美「女一揆としての富山・米騒動ーー女性運動という観点からの読み直し」=『インパクション』166号・2008年12月号、「特集米騒動九〇年、いま食と農と貧困を問う」の中の一編。斉藤氏はメディアとジェンダーに関する研究者。


まず、わたしが「女一揆」と呼ぼうといったのは、「哀願ではなく強い抗議であったことをもっと主張せねば」という理由ではなかった。「主婦の哀願運動」ではなく、陸仲仕(おかなかせ)の女性労働者が組織的で統率のとれた行動をとれたゆえにあれほどの影響力を持ち得たのだと考えたからだ。「哀願」か「強い抗議」かという表現形式の問題ではなく、運動がどのような構造的な背景の元に起きたかが重要であるという意味で、「女性運動という観点からの読み直し」という副題もつけていたのだ。しかしながら、勝山さんは、わたしが「女一揆」と呼びたい理由の肝腎な部分を捨象して、単に「女一揆」と呼ぶことだけをご著書で採用されているように、わたしには感じられた。


さらに、勝山さんは、「男のするものとされた一揆をなぜ女がするようになったのか——まだ誰もその歴史的道筋を指し示していない」ゆえにこのテーマに取り組む、と書かれているが、「男のするものとされた一揆をなぜ女がするようになったのか」という問い自体に大きな疑問がある。「一揆は男のするもの」であった、というのは破壊的な行為だけを強調するこれまでの一揆研究者のイデオロギーによるものだということは、わたしが引用元の論文でアン・ウオルソルを引いて書いたことである。わたしの主張を引用したというすぐ後に、それと相反する文章を書かれているのはどうしたことか。


それと関連するが、カッコの中に書かれている「女性たちは米騒動においてその最初期から導火線的な働きを果たしていたのかもしれない」という表記にも、女性は(やっていたにしろ)「導火線的な働き」しかしていないだろうというように、女性の貢献を矮小化する発想がちらちらしているように感じられる。そういう発想のもとに「女一揆」と呼ばれても、単に、著者の新発見探しのために「女性」呼称がネタにされただけという気がしないでもない。


さらに、全編を通じてだが、性別以外に仲仕という職業や細民という階層などが深く絡まっているはずであるにもかかわらず、「男vs女」だけに焦点が当たりすぎているように感じられた。「女一揆」呼称によって、性別以外の要素が捨象されるというのは、わたしの本意ではない。この点も誤解を避けたいと思う。また、先に述べたように、女性の貢献を過小評価する文脈で「女一揆」と呼ぼうという私の主張が引用されており少々困惑している、というのが正直なところだ。


勝山本のテーマとされる「置き米」については、まだちゃんと読めていないので別の機会にしたい。今回、わたし自身の主張が関わっているのでその点の誤解を解くために書いた面が大きいが、井本さん、勝山さんの新刊はいずれも、米騒動研究に久方ぶりに新風を吹かせたものであることは確かである。

【追記】読売新聞富山版が勝山さんの本を「米騒動きっかけは… 港の女の情報力と紹介しています。