ニュージーランド地震の被害者報道に思う

ところで、ことしはまたまた大事件が起きた。そのニュージーランドクライストチャーチにおける地震に関する報道だが、「富山」「富山」とテレビから呼びかけられるのでどうしても気になり、見る機会が多い。大きな被害を受けたビルにあるキングス・エデュケーションに語学留学で行っていた中に、たまたま富山外国語専門学校の学生さんが多くおられたようだ。地元でも、接骨院に行った時に、(職業欄に教員と確か書いたようなかすかな記憶が、、、。そのせいか)あなたはニュージーランドに関係してないのかと聞かれたり、友人に会ったら、知り合いの娘さんだかお孫さんだかに行っていた方がいらしたとか、ニュージーランドに行くツアーを取りやめたとか、なにかとこの話題を耳にする機会が多い。

これまでの事故報道では、被害にあった方々のお名前、年齢、時には顔写真までがずらりと並んだものだ。一般に、犯罪などの加害者については匿名になっても、犯罪や事故の被害者は実名が当然といった報道が長らく行われてきた経緯がある。富山のメディアの中の性差別を考える会でまとめた『メディアに描かれる女性像ー新聞をめぐって』(桂書房)では、性犯罪被害者が殺された場合は実名、存命の場合に匿名というルールを問題にした。

しかし一連の報道をみていていると、今回は、少なくとも数日間の初期報道では、被害者の実名報道を避けていたふしがある。「富山市女性(○○歳)、高岡市女性(○○歳)、射水市女性(○○歳)」という風に匿名で表示されていた。数日後から実名に切り替わり、中にはfacebookから顔写真を借りてきて貼り付けた新聞もあり、どうかと思った。自分も事故にあったらfacebookの写真が使われるのかなと想像してしまった。このように本人の許可を得ることができないことが明白な中、実名で写真付きで掲載されるように変わった背景にはどういう力学が働いたのだろうか。自身の情報の出され方に有無を言えない場合、だれがそれを管理する権限があるのだろうか。決して、マスメディアに全権の権限があるとは思えない。

ちなみに、親やきょうだいが現地に赴く中、留守を預かる祖母や祖父がよくテレビに登場しており、しかも、素朴に方言で語っている同じ映像が繰り返し流されていた。それを見る度に、画面に出ることの影響を想定できないまま単に目の前に現れたマスコミに対応しただけだろうと思うが、結果的に、祖母や祖父の善意の対応がマスコミの餌食となっている感が感じられて、なんか痛々しい感じがしたし、またそれを見せつけられている側としていやーな感じも味わった。

しかしまあ、初期だけでも匿名報道がなされたという変化は、犯罪被害者基本法の制定も若干影響を及ぼしているのだろうか。あるいは、個人情報保護や人権擁護という流れが関与しているのだろうか。また今回当初匿名の方針を堅持していたことには、富山外国語専門学校富山市が設立した学校であり、富山市が情報を管理していたであろうことが何らかの形で関係していたのではないと感じている。一私立学校だったら、マスメディアの攻勢にここまで匿名を堅持できただろうかと考える。

考えてみると、犯罪加害者を報道する際に、どう表記するか、という点は推定無罪という原則、ならびにそれと裏腹に新聞・テレビ・雑誌による集中豪雨的な「犯人視報道」*1の実態(例えば、http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no99.htm参照)があることから、これまでそれなりに議論されてきたが、こうしうた災害や事故の被害者、犯罪の被害者などをどう報道するのがよいのか、についてはごく最近まであまり熱心に議論されてこなかったように思う。

ということで、このように、事故の被害にあった方やその関係者を報道の二次被害で苦しめるようなことだけは避けたいと思う。誰もが被害者になる可能性はあるのだから。その点で、言われているように右足を切断した方への報道記者の暴言だけではなく、広く被害者をどう取りあげるか、という点に関心を払いたいと思う。特に今回のように、事故の被害者が現場に埋もれており発言できず、家族も現地に赴くことで精一杯でマスコミへの対応をしきれない場合、だれがこれらの情報開示をコントロールできるのだろうか。

*1:ちなみに、今では一般的に使われている「犯人視」報道という概念は、元毎日新聞記者の木部克己氏が『甲山報道に見る犯人視という凶器』(1993年、あさお社)において提起された概念だったと思う。たしか、木部氏は新聞記者を辞してこの問題提起の書を書かれたと記憶している。