80年代富山での反原発運動ーCWAN

 80年代前半に能登原発反対運動で北電に出かけたり、「風下の会」というグループに加わったりしていた。もうかれこれ30年近く経つので、知らない人も多いから、当時のことを思い出して記しておくことにする。

 1980年に富山県に戻ってきてすぐに、当時進行中だった能登原発の構想を知り、能登原発の予定地の一坪株主運動に参加したり、その後北陸電力の株を購入しての意見株主運動にも関わったりしてきた。高岡は能登原発から30キロなので、「風下の会(原発はいらない風下住民の会)」というのにも参加していたが、今回の福島原発の震災により皮肉なことに、原発から30キロが避難区域であることを改めてまざまざと見せつけられた。地元の人はどれほど忸怩たる思いを抱えておられることだろうか。

 しかしながら、反原発運動もチェルノブイリ以後は、なかばあきらめのような感覚が強まり、88年の「まだ間に合うのなら」という伊方原発の出力テスト反対運動をピークに、次第に活動自体がだんだんしぼんでいったように思う。「まだ間に合うのならー私が書いた世界一長い手紙」という甘蔗 珠恵子さんの書かれた冊子が50万部も売れたと聞く。当時の運動は、チェルノブイリ事故にショックを受けた子を持つ女性たちが多く参加していたのは、当時の反原発運動が会社などの組織に属している人間には入りづらいほど「異端」的なニュアンスがつきまとったこと、当時の子育て世代は「寿退社」を選択するトラックにあった均等法以前の世代であったため組織から外れていたことがあったかと思う。

 当時の反原発運動の盛り上がりについては、「日本にも反原発運動があった」という記事を参照する。

88年2月、伊方原発出力テストには「まだ間に合うのなら」を合言葉に、全国から数千人が高松に集まり、「原発サラバ記念日」と称して祭衣装に身を包み、路上ダイ・インや「原発無くしてもええじゃないか」の歌と踊りに興じた。更に4月には東京1万人デモの呼びかけに、華麗なる2万人の春風パレードが銀座を練り歩いた。

ちょうどその頃、富山の女性たちと故山本定明さんとで能登原発を止めるために、CWAN(Concerned Women's Association of Noto) というささやかな活動をしていた。チェルノブイリ事故以後世界初となる「能登原発」が着工されようとしているのを止めたい、一旦事故が起きると世界中にその影響は及ぶのだから、北陸電力社長と石川県知事に着工に反対だという意志を世界中から送ってほしいという呼びかけを行った。当時、協力を依頼しに原子力資料情報室に代表の高木仁三郎さんを訪ねたことを覚えている。そして、北電や石川県知事に反対の声を届けたというお知らせが国外の市民から当方にも舞い込んだものだった。



 しかしながら、能登原発はそうした表に出た一部の反対の声にも躊躇せず、着工された。その後、能登原発差止め訴訟が行われたが、その頃はもはやわたしはあまり関わっていない。能登原発への反対運動については、こちらの年表を参照ください。

原発運動から距離を置いたのは、やることをやったけどなかなか事態は動かないという、あきらめにも似た思いと、自ら関わったCWANも例外ではなかった、母性主義的なところに頼る運動に対する言葉にならない違和感も多少あったように思う(今から考えると、この運動には、海外頼みという面もあったが)。次第に「反原発」運動から遠ざかり、より足下の問題と思えた「性差別」問題に取り組むようになっていった。

 このようにかつて反原発運動に関わっており、そして運動が大きく成果を得られないまま諦め的な気分が募り、運動から距離を置いてきた。そうした中、今回のように深刻な事態を迎えたことになんとも言えない思いを抱えている。東電の原発事故以来、なかなか原発に関して物を言う気分になれなかった。しかしながら、こうした運動があったこと自体は、いくばくかの継承にもなるのかならないのかわからないが、ここにかすかに留め置くことにしたい。