小沢一郎氏の裁判における「市民参加」という手法の運用問題

小沢一郎氏の検察審査会による強制起訴、裁判、そして小沢氏の記者会見から入院に至る過程が大きなニュースとなっている。その一連のニュースをみていて思うのは、強制起訴を議決できる検察審査会が「市民参加」の制度であること、そしてその強制起訴の議決がどのように決められ、それが妥当だったかどうかを判断する人や組織がどこにもないことだ。実際、その制度がどのように運用されたか、についてもどれだけ公開されているのか、疑問である。なぜその制度の運用過程が問われないのだろうか。それは「市民参加はいいこと」とされているからだろうか。

しかし、小沢の強制起訴がこれだけ問題とする声が多いのであれば、「市民参加」がうまく運用されているかどうか、だれかの意見にひっぱられないか、など検察審査会の「市民参加」の内実についても議論すべきではないか。強制起訴の権限はあまりに大きい。

「市民参加」がなんだっていいわけではない。「市民参加」はだれか声の大きい人やそれらしく聞こえる声にひっぱられるかもしれない。「市民参加」の内実や限界が個別具体的な事例において論じられる必要があるのではないか。だが、検察審査会の「市民参加」については、どのように参加するのか、といった制度の表面的な説明にとどまり、その制度設計自体にある「市民参加」の運用の仕方について、あまりにも議論されていないことに危機感を覚える。

それは、地方自治体の男女共同参画政策や条例において、「市民参加=市民のエンパワーメント」「市民参加=絶対善」という価値によって運営されてきたが、さまざまな混乱やバトルが生じ限界を感じていたことをわたしがこれまでずっと見てきたから思うことでもあるのだ。

市民参加を制度化した男女共同参画推進員がジェンダーにかかわる図書の排除を提案した福井県のユー・アイふくいの事例しかり、パブリックコメント公聴会という「市民参加」の手法で反対派が活躍し条例が改定されることになった都城市男女共同参画社会づくり条例もそうだ。性的少数者の人権を認めた旧都城市の条例も、審議会への「市民参加」によりつくられたものであった。どれも「市民参加」を自分たちの価値に引きつけて活用しているように思われた。運用の仕方に対する歯止めやチェック機能がまったくないのである。運用がどのようにでもできるということに問題を感じるのだ。「市民参加」ということ自体が悪いということでは決してない。それは誤解されないように願いたい。

「市民参加」は最初導入された時は、導入した側の一定の方向の価値に向かって運用されることを期待されていたのかもしれない。実際、そのように運用されていたことも事実だろう。しかし、今やなんでも「市民参加」を導入ということになっているが、その運用の課題も同時に論じないと大変なことになるという気がする。

「市民参加」がもっとも先鋭化しているのが、なぜか司法の世界である。検察審査会裁判員制度は、「市民参加」が法律で制度化されている。男女共同参画条例、自治基本条例などよりはるかに甚大な影響力や結果をもたらす案件に、「市民参加」が制度化されているのである。そのもたらす影響を考えると運用状況を放置するわけにはいかない。しかし、放置されているのはやはり「市民参加」というプロセスが、専門家が決める制度より、よりよい民主主義のプロセスだという前提があるからだという気がしている。

小沢一郎氏の検察審査会による強制起訴、裁判という具体例において、司法における「市民参加」の運用プロセスをもっと公開し、論じられるべきだと考える。もし、どこかで論じられているのであればぜひ知りたいものだ。