富山の女性運動(2)ー80年代以降草の根的動き

わたしが女性運動と行政との関係にしばしば言及するのは、富山での草の根的女性運動出身であることが影響している。わたしが富山に移り住んだ1980年頃の富山では市民運動といえば女性運動より、消費者運動、反原発運動などの反体制的な市民運動が盛んだった。80年代初め頃の草の根市民運動は行政とは距離あったり、むしろ対立することの方が多かった。

以下では、1980年代以降の富山における草の根的(行政とは距離がある)女性運動について書いてみる。これらはわたしが多少なりとも関わったものばかりであり、運動全体を書いているわけではないことをお断りしておきたい。


1980年前後、「女たちの会」という草の根の女性グループが富山で生まれた。始めたのは、リブ運動の盛んな頃、田中美津氏を富山大学に呼んだ方や、高群逸枝の『女の歴史』の読書会をしていた方たちで富山県内在住の女性たちの運動体だ。『つみ草つうしん』という機関誌を出していた。これら富山の女性運動の資料集として、「女(わたし)を生きる女(おんな)たちー1982-1991年」(「女たちの会」&「めんどり会議」in とやま)がある。1993年に手作りで発行されたA3版全90ページの冊子だ。これをぱらぱらみると、「エロス希求の障壁」「本音で生きたい!」などの文が並ぶ。当時まだ新しかった強姦への問題意識の芽生えや、生活丸ごと問題にするっていう取り組みなど、70年代からのリブのやり方と共通するものがあったように思う。(ちなみに田中美津氏は泊まった富山大学新樹寮のあまりの汚さに、講演をしないで東京に舞い戻ったと自著に書いていたのを読んだ記憶がある。東京まで電車で8時間かかる時代だった) 


「女たちの会」が最初に取り組んだのが、1982年の『声なき叫び』富山・高岡上映会だ。女の目で強姦を真正面から捉えたカナダの映画を上映する会が当時全国で結成されていた。この映画を「富山を素通りさせてはならない」という思いでこの自主上映するための実行委員会をつくり、子連れで取り組んだのを覚えている。これが富山での70年代の香りがするリブ的運動だ。おそらく富山では、80年頃にリブ運動の機が熟したのだと思う(東京ほか北海道、関西、九州などの地域では70年代にもっとも活発な運動が展開されたようだ)。このささやかな取り組みが地元紙に掲載されたのを見たときは新鮮な驚きだった。行政やメディアなどの社会体制(エスタブリッシュメント)は、自分達のささやかな市民運動とはかけ離れたもの、別世界と感じていたからだろう。
その後、資料集をみると1983年には、優生保護法改悪阻止全国集会に富山から7人もの女性が参加しているし、同年の「アジアの女たちの会夏合宿」にも3人が参加している。84年には、「優性思想を考えるスライド上映会」も開かれるなど地元での運動と全国の運動とがリンクしている。同年には、「主婦的状況」を変えるために子育てしながらのびのび働ける場をつくろうと「せっせっせ」がつくられ、お店を開くために青空バザーなどに取り組む動きも生まれている。さらに、85年に「中絶ー北と南の女たち」上映会では、女の生き方と身体を肯定しようと取り組んでいる。
 

その後、1989年メディアの中の性差別を考える会に参加した。「女たちの会」を一部引き継いだ形の「めんどり会議」というネットワーク的な運動体がすでにあり、そのネットワークで呼びかけた仲間で「メディアの中の性差別表現」について取り組みが始まった。メディア企業の記者さんたちと勉強会をしたり、全国の新聞社、テレビ局にアンケート調査をしたりした。外国特派員記者クラブにもアンケートを出し、海外事情を調べてガイドラインがあることを知った。10数名のグループだったが、精力的に動いて2冊の本を出し、いろいろと発信をしメディアを変えようと頑張った(この会の活動や刊行物については、ジェンダーとメディアのHP http://homepage.mac.com/saitohmasami/public_html/にも掲載しているし、また別途詳しく書きたい)。1980年代後半は、ちょうど土井たか子さんが選挙の時に「山が動いた」といったように女性たちの勢いが全国でマグマのように吹き出していた。女性の力が点ではなく、層となって世の中を攪乱し始めていたように思う。


富山での「女たちの会」「めんどり会議」「メディアの中の性差別を考える会」という運動体は、行政とはほとんど接点がなかった。わたし自身は、90年代始めに行政の行動計画策定に関わる機会を得て始めて行政との関わりができた。しかし、それまでは女性差別問題は行政とのつながりはなかった。女性政策も自分達とはあまり関係のないものに映っていた。当時、行政と関わりのある女性団体といえば、婦人会など大規模な団体だけであった。自分が関わっている10人前後のささやかな運動は行政の動きに関わることもないし、行政と関わりのある団体といっしょに行動することもなかった。おそらく関心事が異なっていたとおもわれる。しかし、草の根的運動はずっと途絶えることなく続いていたことだけは間違いない。


90年代になって、大きな婦人団体と小さな市民グループが共に活動をする機会ができた。高岡では1989年「女性の会連絡会」という組織ができて小さなグループにも参加に道を開くようになり、活動をともにする機会ができた。右年表の「市民の動き」の項参照。http://www2.city-takaoka.jp/gec/nenpyou.html 婦人会会長さんとも行政の施策策定の委員会などで知り合うようになった。それも90年代初めのことであった。行政の行動計画策定は、そうした連帯にも影響を与えていると思う。ともかく、女性運動は富山でも80年代、90年代ととぎれることなく、連綿と続いている。

このエントリーを書いたのは、「ふぇみにすとの雑記@はてな」で山口智美さんが「女性運動史をめぐる『江原史観』の問題点とその影響」エントリーに書いておられることと関係している。http://d.hatena.ne.jp/yamtom/20060706/1152164096 


「日本の女性学は、リブが日本において世論の支持を必ずしも得られずに終わったという認識にたっていわば諸外国の動向というものを正当性根拠としてフェミニズムを再生しようとする試みであった」(江原1990:10)

「日本の女性学は、『運動から生まれた』としてもあくまでアメリカを経由した運動からの学問の誕生であった」(江原1990:10)


これは、日本の女性学を正当化するために日本の女性運動をないことにしている。このような運動を無視した歴史が書かれていることは由々しき問題である。しかもこれが英語本にも翻訳されているので大問題ってことがあった。それは実際の運動を知らない学者の文章だ、おっとどっこい女性運動は80年代にも日本に連綿とありました、地方にも、富山にも確かにありましたよ、ということを記すという目的もあったのだ。山口さんは、上記サイトで行動する女たちの会っていう東京を本拠とし、全国に会員がいた歴史の長い運動体について書いておられるので、お読みいただければと思います。なお、わかりづらいかもしれませんが、富山の女性運動の(1)に該当するのは、2006-06-13 北京女性会議にチャーター便で参加した富山県の女性たち http://d.hatena.ne.jp/discour/20060613です。こちらは草の根的ではない大きな団体のことを取り上げています。あわせて読んで頂ければと思います。