上野千鶴子・信田さよ子『結婚帝国』を読んだので、追って感想を書きますね。

  • へえっと思って読んだのは、フェミニズムがポスト均等法世代に届かない理由について。上野さんが自分達の世代だと「選択肢がありませんでした。女はまとめて差別されたから、まとめて連帯するしかなかった。利害の共有があり得たんです。ところが今は、なまじ選択肢があるばっかりに、知恵と能力のある女がその自分の知恵と能力をほかの女と連帯するためではなく、ほかの女を出し抜くために使う」と言っているところ。
  • これだと、アカデミアの世界だけ若いフェミで繁盛してて、運動現場には若い世代が少ないってこともあてはまるのかなと思ったが、当事者世代の方はこれにうんうんってうなづくのか、え〜ひどいって反論するのだろうか。
  • 他にもいろいろ共感するところはあった。一つ違和感があったのは、「摂食障害」について。

摂食障害の女の子たち。まさにネオりべいの罠にはまった存在よね。(中略)「やりたいことがみつからないのは、わたしの意欲がないから」「こんなだめなわたし、でもそれを許しているのもわたし」「ああ、こんなマイナス思考のわたし」・・・という出口のないアリ地獄ですね」と信田さんが言っているところ。
他の多くの本も大概は、「摂食障害」や「拒食症」の女子が「資本主義によりあおり立てられ、操作された欲望」の犠牲者とみなしたり、美の規範に合わせようとして「やせなければならない」と思いこまされ、「自己嫌悪」になっているとか、食を絶つ女性たちを女らしさ規範や資本主義の犠牲者と見なす考察が多いようだ。

  • しかし、最近読んだデボラ・ラプトンの『食べることの社会学<食・身体・自己>』では、「摂食障害」を主観性を構成し、身体をコントロールする手段として食べ物をコントロールしていると考察している。食事のコントロールがうまくいけば満足感や達成感が得られるるとある。要は、「食を断つこと」が「自己をコントロール」する方法とみなされていた。
  • 私自身の経験から言うと「食を断つ」行為は、消極的選択というより、ある種戦いという実感があった、ラプトンの「自己コントロール」説に納得できた。みんなはどう思っているのだろうか。
  • もっといっぱいテーマがあるのですが、ほんの一部だけ取り出してみました。他の方の意見も聞かせてください。