岩手大ジェンダー論、早稲田大メディア論

なにかとせわしく長らくブログ生活から引っ込んでおりました。書き込み下さった方、お返事できずすみませんでした。
その間、岩手大学人文社会科学部での文化論特講の集中講義で「女性運動・女性学ジェンダー概念」という講座をしてきました。岩手大は父の母校でもあったので特別の感慨をもって学生さん、地元の方と接した1週間でした。これからの生き方、職業選択によりよく活かすためのジェンダー論が目的でした。少人数授業で連日課題レポートを書いてもらうという学生さんにはハードな日程でした。最後には、課題として先輩や家族など身近な人へのインタビューか、女性センターを利用するかいずれかを含むレポートを「今後ジェンダーをどのように活かしていくか」というテーマで書いてもらいました。それも近頃届きました。ジェンダーと自らの生き方との関わりを感じ取ってもらえたのではないかと思います。授業をして、ジェンダーがあまりにも観念的なものとして受けとめられているんだなという印象を持ちました。お勉強として学ぶものであって、自分の生き方や、母や祖母、父、祖父の生き方、暮らし方とは全然つながっていないことがわかり、その克服が一番の課題だなと思いました。それで最後のレポートを上記のようなテーマにしました。でも、学生さんの中には一人ユニークな経験をもつ社会人学生さん<http://www.archicollection.com/toppage1.html>がおられ、その豊富な職業経験、生活経験について授業中にお話を聞く機会がありました。そのことはジェンダーについても将来の生き方についても学生さんたちのイメージは広がりを持ったのではないかと思いました。ネット検索でHPを訪ねてくださって講師に迎えてくださったのですが、このような形で岩手の学生さんとの交流の機会を得たことに感謝しています。岩手大のみなさまにはどうもお世話になりありがとうございました。
また、もりおか女性センター<http://www.odette.or.jp/josei/index/>の藤原美妃子さんとの出会いも私にとっては大きな刺激でした。高岡や富山、武生など私の知っている女性センターの熱心な職員の方々とネットワークができたらいいなと思ったりしています。
岩手に行って思ったことの一つに、地方と首都圏をつなぐのではなくて、地方と地方を直につなぐことに意味があるんじゃないだろうかということがあります。これからもっと力をいれていきたいことの一つです。また機会があったらどんどん地方にでていって新たなヨコのつながりをつくっていきたいと考えています。

その後、9月30日からは早稲田大学教育学部でのメディア・言語コミュニケーション論総論と言語・コミュニケーション論演習がスタートしました。メディア文化の権力性を言説分析により斬っていこうという趣旨で、批判的言説分析(Critical Discourse Analysis)などの方法を実践的にとりあげていく予定です。総論の学生さんの中には1年前から私のHPを時々訪ねていますという方もあり、ネット発信していることの手応えをここでも感じることができました。
総論は180人の講義形式なのですが、レポートを書いてもらったり、宿題を出したりしてなんとかインタラクティブなやりとりをしつつ授業を進めたいと策を練っているところです。
初回は、<http://d.hatena.ne.jp/discour/20050815><http://d.hatena.ne.jp/discour/20050826>でも書いたような近頃の総選挙とメディア報道のことのほか、戦争報道、健康情報娯楽番組とフードファディズムの例を通してメディアの言説権力について問いかけをしました。その際、スポーツ紙の報道で「聖子氏・ゆかり氏」「真紀子節」VS「鈴木宗男氏」「亀井氏、堀江氏」という敬称における男女差(男は姓と名、女は名のみ)を紹介したことへの反応がもっとも大きかったことのは私には意外なことでした。ネットや女性とメディア業界ではよく知られた現象だと思うのですが、まだまだ知られていないのかなと再認識しました。
富山市での看護学校の家族論の授業についても、昨日無事試験が終わり前期を終了しました。後期はもうすぐ別の専門学校の社会学の授業が始まります。

【追記:ジェンダー】え、いつから? はてなダイアリーの「ジェンダー」<http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC>に「女性学・行政と女性運動の関係」(山口智美さんと私で運営しているサイト)が参照先にあがっていることに気づきました。

私がジェンダーを説明するとしたら、「性のありよう。個人の意識(アイデンティティアイデンティティ)レベルから社会規範、社会制度の次元にまでかかっている」でしょうか。
一般には、「社会的、文化的な性差・性別」といわれています。でも、多くの人は「性役割」という個人の役割意識の次元でジェンダーを考えておられるような気がしています。それだと、個人の意識レベルの問題、個人的なことでしょ、と切り捨てられるか、啓発・教育対象になるかです。それでは不公平なジェンダー状況は変わらないのではないでしょうか。ジェンダーで大事なことは、社会のあらゆることと関わっていることですし、社会のしくみを変えていくことです。「ジェンダーは問題としては重要だが、解決はジェンダーではない」という意味のことをDeborah Cameronが書いていましたが、それは制度、しくみを変えないと変わらないという意味だと思います。
「社会的、文化的性差」というジェンダー概念は、かつて社会を「男性」「女性」というカテゴリーに分け、そのカテゴリー間の差異を検討する研究をしていた社会心理学や、社会化を通してジェンダーが形成されるという発達心理学などの発想ではないかと思うのです。社会集団の中にもろもろの権力関係が生じているという社会観を欠いている点に不十分さを感じます。

また、ジェンダーを教えていて感じるのは、学生のみなさんが「ジェンダーを学ぶ」経験は豊かになっているものの、ジェンダーに関する知識が「自らのジェンダーを生きる」ことにはつながっていかないようなのです。 お勉強フェミニズム男女共同参画行政の影響かなと思い、自分の生き方とからめて考えられるジェンダー論にしなければとより強く思うこのごろです。
久しぶりに書いたので長くなってしまいました。ジェンダーについてはこれからも書いていきます。
【追記2】藤原美妃子さんが盛岡での出会いをブログに書いておられました。藤原さんに関心のある方は是非こちらも。ネット生活から離れていたので気づくのが遅れました。<http://blog.so-net.ne.jp/mikikofujiwara/2005-09-05