追記:女性学、女性運動の「失われた10年」


今朝の「進む保守思想の空疎化――『新たな敵』求めて散乱」宮崎哲弥(朝日5月10日)を読んだ。この10年は保守思想が浸透し、戦後保守の最盛期だったとする著者は、「皮相な盛況の影で、思想内容の空疎化が進んでいるのではないか」と問うが、そうした「『主義』として立てることができない、名状しがたい感覚、完成、情緒、情念などが保守という態度の中核にあった」保守思想は、「ジェンダーフリー」など新たな「『敵』を見出しては、その都度対象に逆規定されるような思想実践」をしてきたと批判されている。意外な主張であったけど、的を射ているように思った。


これを読んで、女性学・行政連合体が、ただ単に保守派から名指し批判されることを回避する姿勢でやり過ごしてきたこの10年もまた同様に空疎化の歴史であったなあと思った。「敵」と名指しされることであたふたと対応に迫られた歴史だったように思う。「ジェンダーフリー」論争はその象徴だ。この論争から何か新たに得られた思想的営為はあっただろうか。


ジェンダーフリー」や「ジェンダーチェック」へと乗り換えて思想も深めてきたような幻影にまどわされてきたが、自らの機軸を失いかけただけではなかったかと忸怩たる思いがする。この「失われた10年」(1995-2005年)を取り戻す作業を開始しなければならない。


そのスタートは、市民が動きを主導することでなければならないと思う。「失われた10年」に得た唯一の収穫は、権力関係に鈍感になることで払った犠牲の大きさに気づけたことだった。


仮に、今後、行政との「協働」などの連携活動を行うというのであれば、市民は「ジェンダーフリー」論争で忘れられた行政官僚や女性学者との権力関係に敏感になるという感覚を取り戻すことからやり直なければならない。これなしには同じ轍を踏むだけだ。


失われた10年」の最大の収穫は、女性運動にとって最大の「弱点」が、やはり「権力関係」だということがわかったことだ。


金と人を動かす力をもつ行政という組織、知の力をもつ学者、「男」がすることが女がすることより威信が高いとみなされる男性の象徴権力性、同様に社会の階層によって異なる威信、民族によって異なる存在価値と賃金の格差、だれを好きになるかによって憎悪の対象となることもあるセクシュアリティなど権力関係に含まれるものは幅広く奧が深い。


こうした力関係の生じる位置どりを重視することがますます大事になってくると思う。