領域を横断する議論

discour2006-07-12

7月9日(日曜)お茶の水女子大学でCOEがらみの「英語圏ジェンダー理論/表象研究会」第7回文献検討会Donna Haraway, ”Simianss, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature”(『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』(高橋さきの訳、青土社)という竹村和子氏が主宰される研究会がありました。ポスター参照。
 そこでは、前日の上野さんの後に続きわたしが『バックラッシュ!』本を紹介してきました。 アメリカ在住の生物人類学者・瀬口典子さんの「「科学的」保守派言説を斬る!??生物人類学の視点から見た性差論争」は、日本語では文献が少ない科学史研究に参考になるものであり、マンザハンターモデルがベストセラー「話を聞かない男と地図を読めない女」のモデルだということや、天皇の男系問題でY染色体が強調されているなど俗説を批判しつつ英語圏の性差に関する研究をていねいにレビューしており、1つで2つおいしいですよと・・・。
 

即、反応されたのが竹村和子先生でした。買おうと思っているのだけど、ぜひとおっしゃったのでお貸ししてきました(めちゃめちゃ付箋が貼られて、カラフルに線を引いたものなので、利用しづらいのではと思いますぅ・・)。
竹村先生、わたしのブログも探してみるわとおっしゃっておられましたが、ごらんになられているでしょうか。みてくださったら、ぜひコメント欄に足跡つけていってくださればと思います。また、お猿の類のハンドルでコメントつけるといって下さった方もありました。


当日、わたしの分担は、霊長類研究に関する1,2章でした。全体の概要など省略しまくりだが、わたしはフェミニズム研究はどうやったらいいか、というフェミニストの方法論という観点から関心をもって読ませてもらった。何をどう主題化するか、それもどのような前提や認識枠組みによってアプローチするか、といった点に関心があったからだ。どうやったらあらゆる立場の女性の権利がより侵害されない研究になるのか、どうやったらよりよい社会になるのか、それに寄与するための研究はどうあるのがいいのか、という点が気になるのだ。


その観点からすると、ハラウェーの言っていることは必要な議論だが、ハラウェーの文体は難しすぎて伝わりづらいのではないか、という感想をもった。その場でも述べたのだが、十分に説明できなかったように思うので少し書いておきたい。「状況におかれた知(situated knowledge)」(9章)という主張をしているハラウェーであれば、研究における自分の位置どり、立場性にも敏感なはずである。しかしながら、ハラウェーのネチネチとした難解な文章では、伝えたい人に伝わらないのではないかと懸念された。

ハラウェーについては、アメリカでもサイボーグ宣言の人って評価であるが、あとの論文は無視って感じであまり評価されていない、と当日話に上がっていた。それには、もしかしたらこの文体の影響もないのだろうか。最近の文学系は、ノーマ・フィールドさんなどのようにとてもシンプルな文体で書くという方向性も一方にはあるようだが、ハラウェーはその対極をいくように思った(ちょっと孤高の人っていうイメージがするかな)。


6章のアフリカの女性作家エメチェタを読む章で、ハラウエーはフェミニズムは自己を閉じたものとするのではなく、他人とぎりぎりのところでつなぐことを説く。すなわち、書くことに希望があるのは、アイデンティティではなくアフィニティ(「ローカルな歴史やグローバルな歴史に実際に何らかの変化をもたらしうる、かろうじて可能な関係性」)をどうやってつくっていくかを学ぶことだ、という。これはわからないではないが、伝わる人にしか伝わらないような気がした(実際、わたしにはいまいち難解すぎてピントこなかった)。当日、この章の報告では、ナイジェリアでの受容を誤解していることや、引用が恣意的なことなどハラウエーのコロニアリズム的な面(?)への批判が出ていた。


わたしは当日、英文学研究の方々とは着眼点が違っているのだなということも感じました。その意味では、生物学とはいわずとも、今領域横断的な議論がフェミニズムに必要なことは間違いないところだ。