鈴木ふみさんの女性運動についてのエッセイ

『女の遺言ーわたしの人生を書く』の著者のひとり鈴木ふみさんが紀伊国屋書店のサイトで語っておられる。鈴木さんは、ドメスティック・バイオレンスについての著作も多いし、とても鋭い感性の持ち主でありわたしも刺激を受けることが多い。上の『女の遺書』も、遺書なんて関係ないやと思っていたが、ところがどっこいそういう遺書ではなかった。「死」を考えることは今の日々を創ることという発想で人生を振り返り、よりよく生きるための遺書の提案であった。考えさせられる一冊であった。紀伊国屋のサイトにあがっているエッセイもインタビューもおススメです。それとオススメの本も丁寧に紹介されています。

鈴木ふみさんエッセイー「わたし」にとっての女性解放運動とは。

わたしの課題は、運動の内部から理論を生み出し、それを力として使うという道筋を見つけることだ。それは、思いがけないきっかけでやってくる機会をとらえて、造られた現実からはみ出し、つねに人と出会い直すこと。きっと、重荷を解きあい分けることになり、それが他者への想像と楽しむ創造の余裕につながれば生きのびられるだろう。
そして、活字にならないこと、その場に立ち会わなければ聴けないこと、一緒にいなければ感じられないこと、それらをこそ自分の手ですくい取っていこうと思っています。


鈴木ふみさんインタビューインタビューも興味深いものだ。

はっきりいえることは女性の解放を阻止しようとするジェンダーフリー・バッシングが、「ジェンダーフリー」という言葉をただ「性の区分を一切なくすことだ」との曲解のもとに、女性差別が温存され、男女性愛以外の人々・あり方への差別につながっているということです。役割やその裏返しとしての義務を強調することは、平等が実現していない社会の中ではどこにしわ寄せが及んでいるか考える必要があります。まずは、女性やセクシュアル・マイノリティの人たちを格下げしないことを徹底させるべきです。


殴られ、傷つけられる役割を女性に振りあてるジェンダーフリー・バッシングの瑣末な揚げ足取りに怒りながら、女性が人身売買され続けているという暴力、女性のHIV感染者が増加している現状や世界中に広がる男女間の貧富の格差などこそ話題になってほしいと考えています。


 バリア・フリーという言葉がありますが、そのバリアによって得をしている側、つまり健常男性こそ、課題にすべきことがたくさんあります。もっとジェンダーという仕組みに敏感になる必要があります。ジェンダーフリージェンダーフリー・バッシングの対立は、女の子への教育の場でより顕著になりがちですが、私は、男の子に対して、人を傷つけたり、支配しないこと、自身の性器は他人が望んでもいない妊娠を引き起こしうるものであることを理解できる教育をすることが女性の負担や義務を増やさないためにも不可欠だと思います。


 誰もが性的存在なのです。誰もが性的存在として尊重され、誇って性的存在としての自分を表現できることが大事だと思います。女性として性を表現していくこと、セクシュアル・マイノリティの人が性的表現をすることを躊躇しなくてもよい社会が必要なのです。