メディアの女性○○表現もいやだ

2007年元旦。あけましておめでとうございます。みなさま今年もどうぞよろしくお願いします。


歳末でも大晦日でも連日更新のBruckner05 さん、熱心なこと頭が下がります。わたしたちの『きっと変えられる性差別語』はメディア表現を対象としているのではなかったかというご指摘、その通りです。前エントリーでは、Bruckner05さんの「与太話」ということばに引っ張られ、わたしちょっと「与太ってしまった」ようですー(笑)。朝日新聞の有料検索を駆使してまで本筋のメディアの「女性○○」の今をお調べいただき、まことに恐縮です。


ちょうど2006年1月1日から12月31日までの1年間で朝日新聞が「女流作家」と書いた記事がなんと10件もヒットするということです。東京地方版、北海道反、西部地方版と地方版のようですが、いまもって「女流作家」が使われていることにあぜんとしました。お調べいただきありがとうございました。こりゃ、ひどい。「ゼエッタイ困るぞー!!」時代錯誤ではないですかー、「女流作家」さんと呼ばれてうれしいでしょうか。わたしがもしそう呼ばれたらゼエッタイいやです。


また、「女性の特性が『美』や『平和』や『豊饒』にある」というBruckner05さんの麗しい決めつけにも、そんなのどうしてあらゆる女性の特性であろうか、と唖然とするばかりです。「醜女」や「醜婦」、現代では「ブス」という表現がしばしば投げつけられることからしても、古来から現在まで「美」が女性の特性とされてきたとはとうてい思われません。また、「平和」ですが、戦争になっても「女性の特性は平和」だからと忌避されることなく、女性もなんやかやと駆り出され協力させられてきました。「豊饒」とは広辞苑によれば、「肥えた土地」という意味のようですが、女性の特性と言われてもなんのこと?という女性も少なくないと思います。それに、美しい女性が全員平和愛好家とは限らないし、反対に戦いが好きな美女もありです。住むところも生まれ育った文化や環境も民族もそれぞれかなりの幅があるあらゆる女性に、『美』と『平和』と『豊饒』っていう相互に無関係で矛盾も孕む特性をあてはめるのはどんなものでしょうか。とんでもデビューボって感じです(あ、口癖ですので気にしないでください)。


「女性○○」表現を、ご指摘の「女優」表現も含め差別表現として使わないでほしいと願うのは、Bruckner05さんのように、勝手な思いこみによる「女性の特性」イメージと結び付けて受けとめる方がおられるからなのです。Bruckner05さんからいただいたコメントは、こうした勝手な思いこみが今でも存在することを改めてそ確認させてくれるものでした。女性○○表現はやめてほしいと訴え続けねばと思い直したところです。ご指摘ありがとうございました。