全米女性学会報告その2
「ジェンダーフリー」が必要だとする主張に、「男女平等教育=性別特性論」だから「男女平等」概念には限界がある、だから「ジェンダーフリー」なのだ、というものがあります。山口智美さんがおかしいぞ!「男女平等教育=性別特性論」説 (1) においてこれを批判する文章を書いておられます。またmacskaさんが女性運動の歴史の否定の上に成り立つ「ジェンダーフリー」概念の「豊かさ」において、それを受けて現在の主流フェミニズムにおける「ジェンダー」「ジェンダーフリー」展開状況について論じておられます。
本エントリーは、1)この「男女平等教育=性別特性論」説 を明示的に書いた文書を見つけたことについてです。2)同時に、そのすばらしいと言われる「ジェンダーフリー」概念を使った結果、性差別問題が隠蔽されてしまった残念なケースについての報告です。(これは、昨日のべた3)富山のケースで「ジェンダーフリー」が使われたのは、「男女平等教育=男女の特性を踏まえた平等」論を批判する「ジェンダーフリーな教育」という新(珍?)説(男女平等教育研究会編1999)に影響されたために該当する)
「男女平等教育=性別特性論に基づいた平等論」とする主張
1)発見した文書は、『男女平等教育に関する学習ガイドブック〜ジェンダーフリーな教育環境づくりのために〜』(男女平等教育研究会・代表村松泰子東京学芸大学教授)です。次のように書かれています。
男女平等教育もジェンダーフリー教育も、最終的には同じところをめざしている。しかし、最近、ジェンダーフリーな教育ということばがよく使われるようになったのは、ことばの発生と歴史的事情に由来する。
「男女平等教育」ということばは、かなり古くから使われてきたが、その場合、「社会的・文化的につくられた男女の違い」を、自然に基づいた男女の特性ととらえがちだった。そして、「男女の特性が違うのは当然だが、男女は平等であるべき」と考えることを、「男女平等教育」としてきた。しかし現在では、「ジェンダー」を固定的にとらえることこそが、子どもの能力の発達や将来の生き方を制約しており、ジェンダーに縛られずに自由になる必要が明らかになった。そこで、誤解を防ぎ、ジェンダーという視点をはっきり打ち出すために「ジェンダーフリーな教育」ということばが使われはじめた。
ただし、「ジェンダーフリーな教育」ということばが生まれて間もないこともあり、まだ多くの人には知られていないし、その意味についての共通認識も確立していない。そのため、本書では「男女平等教育」ということばも使うが、その意味は男女平等を実現するために、ジェンダーという視点で教育を見直していくことである。(6頁)
「ジェンダーフリー」な教育冊子への疑問
わたしはこのように「男女平等=性別特性論に基づいた平等論」という主張が書かれた文書を初めて目にしました。これまでは口頭で聞いただけでした。しかし、これには いくつか疑問がある。第一に、 「『男女平等教育』ということばは、かなり古くから使われてきたが、(中略)『男女の特性が違うのは当然だが、男女は平等であるべき』と考えることを、『男女平等教育』としてきた。」というのはいったいいつの時代のどのような教育を指しているのだろうか。女性差別撤廃条約批准後も見直しをかけずにこの考え方でやってきたのだろうか。男女混合名簿や家庭科共修への動きはそれとどう絡むのだろうか。
第二に、ここで使われている「ジェンダー」の意味が定まっていない。5頁に「ジェンダーとは、社会的・文化的につくられた性別をいい、それが生殖機能など生物的な性とは異なるものであることを示す概念です」とある。
一方、「『ジェンダー』を固定的にとらえる」、「『ジェンダー』に縛られずに自由になる」(いずれも6頁)という2箇所の「ジェンダー」に込められたネガティブな意味と、「『ジェンダーという視点』をはっきり打ち出すために『ジェンダーフリーな教育』」という箇所に使われている「ジェンダー」は同一とは考えられない。さらに、後者の文章には「ジェンダーという視点」と「ジェンダーフリーな教育」とい文言があるが、この「ジェンダー」と「ジェンダーフリー」の関係もはっきりしない。要するに、「男女平等」「ジェンダー」「ジェンダーフリー」の関係が明確に示されておらず、相互の関係や「ジェンダーフリーな教育」をめざすという主張自体が明確に伝わってこないのだ。
特に、最後のパラグラフの意味わかりますか? 「ジェンダーフリー」の意味が定まらないので、「男女平等」という言葉も使う。だけど、その意味は「男女平等を実現するためにジェンダーという視点で教育を見直していく」とあるが、「ジェンダー」の定義が不明確なままに、「ジェンダーフリー=男女平等を実現するために教育をジェンダーという視点で見直していくこと」とされても、なにがなんだか・・わからない。
この冊子の主張で最大の課題は、「性差別」や平等など権力関係が不明確になっていることだろう。これだったら「性差別」や「平等」というキーワードの方がましではないか。差別をなくすといえばいいことを「つくられた性別」という社会構築性のみに焦点をあてている。このような「ジェンダーフリー」もその社会構築性も、現実の社会では切れ味の悪いカミソリでしかない。なお、後に国は「ジェンダーフリー」を撤回するが、1999-2000年前後の文部省は、「ジェンダーフリー」をサポートしていた。平成11年度『青年男女の共同参画セミナーの足あとー自立した女と男のいい関係ージェンダー・フリーへの挑戦」(わかものジェンダー塾実行委員会)という事業を委嘱事業として行っている。
さらに、ビデオでは『学校からはじまる男女平等への道ージェンダー・フリー』や『「隠れたカリキュラム」を考える』(いずれも東京女性財団)が出ている。これらは「ジェンダーフリー」や「隠れたカリキュラム」ということばが使われ、都内大田区、葛飾区、北区のほか、国立市、調布市などの小学校や中学校での取り組みが多数紹介されている。これらをみてもしかして「ジェンダーフリー」は東京ローカルで特に普及した概念だったのかなーと思ったりした。(これはどうなんでしょう?)
2)すばらしいと言われる「ジェンダーフリー」概念を使った結果、性差別問題が隠蔽されてしまった残念なケース、について述べる。前エントリーで書いた富山の学校給食パンの性差別問題はそのことを如実に示していた。このケースでは、「ジェンダーフリー」や社会構築性がいかに有効に働かなかったかをみてみよう。
議会や市長のサイトでの「ジェンダーフリー」への反撃
前エントリーで書いたように、富山市議会で志麻愛子議員は「ジェンダーの視点からの見直しが必要」と訴えました。これは、当時、「男女平等教育」ではダメで「ジェンダーフリーな教育」でなければならないとする新説(男女平等教育研究会編1999)が文部省委嘱研究として出されていたためでした。(市の教育委員会に訴えるのに、文部省がこういっているというのほど強いことはありません。わたしも立場を同じくしていたら同じことをしていたかもしれません)
志麻議員は、「男女平等教育に関する学習ガイドブックージェンダーフリーな教育環境づくりのために」をもとに「ジェンダーフリー」な教育を求めて学校給食のパンの性差別問題を是正するように当局を問いただしました。そのやりとりについては、前エントリーを参照下さい。
まず、富山市の教育委員会は、次のように、学校給食の主食の男女差は、生物的な差に基づいており、「社会的な構築」といわれる「ジェンダー」には該当しないと反論した。
男女によるエネルギー代謝量の違いは、生物学的な性差、すなわち、男女の生理的機能の違いにつながっているものであることを考えると、学校給食はあくまでも子どもたちの健康の観点から取り組むものであり、学校給食によるご指摘の点については、ジェンダーフリーの視点からのとらえ方は必ずしもなじまないのではないか。この問題が一部のマスコミによって報道された後開かれました学校給食会理事会や献立作成委員会等において、保護者の代表の方からご意見をお聞きしましたが、本市における現在の学校給食について、特に問題とすることはないというご意見でございました.
このやりとりをみると、「社会的構築物」であることを主張しても有効な批判となっていないことがわかる。「性差別」という法律にもとる反人権的扱いであるとする方がよかったのではないか。
「性差別」を避けて、「ジェンダーフリー」にする理由がわからない
男子中学生が母親に『パンの量が違うのは、男女差別だ』と指摘した」という事件の発端となった出来事をそのまま追求していたら、「性差別」をしないという条例や基本法にのっとって「差別是正措置」がとられたのではなかろうか。
なぜなら、富山市が制定した「富山市男女共同参画推進条例」では、「第3条 男女共同参画の推進は、男女の個人としての尊厳が重んぜら れること、男女が性別による差別的取扱いを受けないこと・・・その他の男 女の人権が尊重されることを旨として、行われなければならない。」と規定しているからだ。同条例では、「第2条で(2) 積極的改善措置 前号に規定する機会に係る男女間の格差を改善するため必要な範囲内において、男女のいずれか一方に対し、 当該機会を積極的に提供する」と格差を是正しなければならないと規定されてもいる。これらに照らして男子中学生の指摘したように「性差別だ」という主張ができなかったことが悔やまれる。
富山の学校給食の性差別問題を詳しく振り返ると、 「性差別」や「男女平等」教育はダメで「ジェンダーフリー」教育とするのが失敗だったことがわかる。せっかく基本法や条例などの法律で「性別による差別的取扱いを受けないこと」を明文化し担保をとっているのい、その「性差別」を使わず「ジェンダーフリー」を使うのは逆効果である。同様に、「積極的改善措置」をせっかく明文化したにもかかわらず、「性差別」を使わず、「ジェンダーフリー」を主張するから、富山の学校給食パンの性差別問題が「性差別」と認識されずにうやむやになってしまったのではないだろうか。
現在も主流フェミニズムは、「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」を保守の攻撃から守るべき重要な概念としている。しかし、意味も不明確で、法律にも基づいていない「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」をなぜ死守するのかわからない。森富山市長の対応をみても、戦略として「ジェンダーフリー」を叩いていることがみてとれる。保守派はわかって「ジェンダーフリー」を攻撃しているのだ。従って、それに乗って「ジェンダーフリー」で攻防をしているのはフェミニズムにとっては後退戦になるということだ。
せっかく男女共同参画社会基本法や男女平等推進条例を制定したのである。それは女子差別撤廃条約を批准し、未だ残る「性差別」を解消するためだったのではなかったのか。学問上の「ジェンダー概念」にこだわり、性差別をなし崩しに失うのでは元も子もない。フェミニズム研究は、社会をよりよく変えるための学問ではなかったか。これでは、「ジェンダー」は残っても社会に性差別が蔓延したままということになりかねないことを危惧する。
全米女性学会ではこのような内容について報告したのでした。但し、発表に加筆しています。