フェミニズムは、自己正当化しない

 2007年の日本女性学会大会シンポジウム『バックラッシュクィアする〜性別二分法批判の視点から〜』をふまえて、フェミニズムセクシュアリティに関する研究会「07年大会シンポをうけておもうこと」が開催されたという。発端の今年の女性学会の大会シンポジウムについては、学会ニューズレターで報告を読んだが、なんかかゆいところに手が届かない感が残ったものだった。だが、周りに参加したという人もいなくてよくわからないままだった。それが今回、山口智美さんの参加レポート日本女性学会研究会レポ:守旧化するフェミニズム? と、FemTumYumでのマッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだすならびに発題を読んで、ようやくもやもやが晴れた。簡単にいうと、女性学会に対する内部からの批判が、内部批判ではなく「外部」からの攻撃とみなされ、それを回避しようとする対応がなされたらしいのだ。そして今度の研究会ではその問題性が問われたようなのだ。女性学会の課題が問われたというのはほんとによかったと思う。

 tummygirlさんが指摘されている運動体の課題は、女性学会問題だけではなく、最近のわたしのブログでの「女性運動の「女性」」問題」の議論にも、当てはまるなあと思い、その意味でも興味深かった。tummygirlさんの議論ではっとしたのは、運動体にとって、(「内部」と思われる)身内あるいは身近な人たちからの批判を封じたり、見ないようにすることは、これまで言われてきたように「敵を利する」からまずいのではなく、運動体自体の成長や展開にとって”マイナス”になるからだという点である。

 山口智美さんとわたしは女性学会が「バックラッシュ」と呼んでいる右派の政治勢力から攻撃されている時に、女性学会の戦略や対応について、これでは却ってまずい戦術だということを指摘していた(例えば、 『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング』への意見 や、日本女性学会への質問状とお返事などを参照)。その際、戻ってくるのは、せいぜいで無視か、より強い反応としては「敵を利するようなことは言うな」や「一致団結して事に当たるべし」と、「統一」見解をとらないことを咎める主張であったものだ。

 決して、その指摘はこういう理由により間違っているといった正面切った反論はどこからもなかったと思う。もちろん、指摘してくれてありがとう、じっくり考えてみます、という前向きの反応も、当然といえばそうだが(笑)、なかった。

 tummygirl さんたちが女性学会に対して課題を指摘された際にも、わたしたち同様、直接の議論が避けられたようだ。それについて、tummygirlさんは、批判封じという行為自体が運動体や組織にとって構造的な課題を有することに等しいと述べている。

私が指摘したいのは、第一に、批判の対象となるはずだったまさにその構造、そのロジックが、批判を封じ込めるにあたってふたたび採用され、再確認されたという事であり、第二に、そのロジックこそ、それ自身が「回避したい」と明言しているまさにその事態を引き起こしているものだ、という事です。

言い方を少し変えれば、問題は、「外敵」の存在を理由に、「フェミニズムが優先すべき課題が何であり、それをどう達成すべきか」について、内部での立場の違いや意見の不一致を覆い隠そうとしたこと、あるいは、それを意図してはいなかったにせよ、そのような結果を生んでしまったことに、あります。

それでは、どうすれば良いのか。それはこれから話し合われるべきことだと思います。

ただ、とりあえず必要なのは、内部における意見の不一致や違いを認め、批判を批判として受け止めることだというのは、わかっている。つまり、にこやかにお友達を演じるのでもなく、言いたいことを言わせて聞き流すのでもなく、批判を正面から受け止め、必要なら正面から反論すること。それが可能な体制をつくること。

 右派勢力からの攻撃が激しい時に、それに対抗して闘っている内部からの批判や異なる意見は、結果的に外部の「敵」にとってプラスにはなれ、自分たちの運動体にとってもプラスになることだという主張は見なかったように思う。

 tummygirl さんの指摘は、そうした内部批判を封じる行為とその前提が結果的に「外敵」を作り出す行為であるからまずい行為であり、当該の運動体にとっても批判を封じることによって構造的な課題を抱え込むことになるという。言われてみるとその通りだと思う。

フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明であるという前提が、そのような前提への批判そのものをあらかじめ「フェミニズムの正当な内部」には属さないものとして封じ込めてしまっている。そして同時に、そのような前提が「外敵」を作り出してしまっている。

言い方を少し変えれば、問題は、「外敵」の存在を理由に、「フェミニズムが優先すべき課題が何であり、それをどう達成すべきか」について、内部での立場の違いや意見の不一致を覆い隠そうとしたこと、あるいは、それを意図してはいなかったにせよ、そのような結果を生んでしまったことに、あります。

「対立」は、この「フェミニズム」の側が作り出したのです。フェミニズムがその「外部」にあるクィアから攻撃されるような構造を作り出し、さらにそのような攻撃を多少なりとも正当化するような構造を作り出したのは、まさしく、クィアな批判的視座を頑なにフェミニズムの「外部」として認識し続け、構築し続けた、この「フェミニズム」のロジックなのです。


 さらに、この議論は、女性学会だけではなく、自分がこれまで関わってきた富山での女性運動にも見られる構図ではないかと思えてくる。例えば、「女」の視点・「女性」の参画とは?では、杉浦さんだけを批判するというよりこれまで「女性」という枠を無前提に活動したり、議論したりしてきたのではなかったという、これまでの高岡での自分を含めた「女性運動」への反省から書いたものだ。

 それに対して、appuappuさんが「「高岡の女たち」という言葉を聞くたびになにか釈然としない思いをするのです。その「高岡の女たち」って、私も高岡在住の女なわけだから必然的に組み込まれているの?知らぬマに組み込まれるのはいやだし、「高岡の女」であるのに「高岡の女たち」には含まれないっていうのもヘンだし…もやもや…」と書かれたのでした。

 きっと、これまでの運動の前提の中に自分が入っていないことを認識しつつ、それを指摘することがしづらい状況(年齢や関わりの経歴の長短など)があったのでしょう。すなわちそれが権力差とも言えるのだろうから。

 tummygirlさんの以下の指摘を読んで、自分たちの運動にも当てはまる指摘だなあと思い至った。もっとも攻撃されやすい部分(ここでは、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制)を切り離したり、隠蔽することで攻撃をかわしているつもりで実はすでに攻撃に屈服していたのだ、というくだりである。

その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

再び注意していただきたいのですが、私は、そのようなフェミニズム側の対抗言説が、たとえばトランスを、たとえばゲイやレズビアンバイセクシュアルを切り捨てたことについて、批判しているのではありません。もちろん究極的にはそれをも批判したいのですが、ここで私が言っているのは、直接的にはそういうことでは、ない。

私は、自分をフェミニストだと思っています。

そして、少なくとも私の理解する限りにおいては、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とは、まさしくフェミニズムが批判を向けてきた対象だったはずです。先ほども申し上げたように、その点においては、バックラッシュ言説は大きく間違えてはいなかったはずなのです。だからこそフェミニズムは、トランスのために、あるいはゲイやレズビアンバイセクシュアルと共闘するために、ではなく、フェミニズム自身のために、その二つの体制から逸脱することへの恐怖や嫌悪そのものに、立ち向かうべきだったのです。

フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」というフェミニズム側の主張は、もっとも攻撃されやすい部分を切り離す(あるいは隠蔽する)ことでバックラッシュの攻撃をかわしているように見えながら、その実、フェミニズムにとって根本的に重要な目的を見失いかねないものであるように、そしてその意味で、そもそもの出発点においてバックラッシュの攻撃に屈しているものであるように、私には思えました。

 自分の足下でも、自分たちがどのような前提で何を優先事項として運動しているのか、を振り返りつつ前に進まなければと思った。これまでの取り組みで、例えば「男女平等」ということばを使っていくことが、それだけで「男女」という二項対立的なジェンダーシステムと異性愛制度を認めていることを振り返る必要があるということである。

 このことから思ったことは、フェミニズムは決して自己正当化してはいけないということだ。常に自らの前提や優先事項が何かを考えつつ、他からの批判を受け入れられるような態度やあり方を模索していかなければならないのではないだろうか。決してこれで十分だというところまではいけないだろうけど、このような「自省」的なスタンスこそ、フェミニズムの取り柄だったと思うからだ。