クリントンの「涙」報道とジェンダー問題(2)

昨日のエントリーにはいろいろコメントいただき、ありがとうございました。アメリカではニューハンプシャー・サプライズの分析記事がいろいろ出ているが、その中で、Women’s Support for Clinton Rises in Wake of Perceived Sexismという記事に注目した。この記事は、女性達にいろいろインタビューし、性差別に気づいた女性がクリントン支持に回ったとまとめたものである。簡単に紹介すると、、。

クリントンアイオワで思いがけずオバマエドワーズに負けてしまった、そのことによって初めてクリントンは、有力な大統領候補というより、アメリカで「もっとも高くて険しいガラスの天井」を突き破ろうとしている初めての女性大統領候補として見てもらえるようになったというのだ。要するに、彼女が有力候補と言われながらアイオワで勝てなかったが、そのことが女性有権者に、自分の人生で失敗を喫したことや職場で不当な扱いを受けたことなど、いわば女性有権者の性差別経験を思い出させることになったというのだ。自分たちが女だからということでさまざまな性差別に遭遇してきたこと、不当な処遇を受けてきたことを思い起こし、クリントンが勝てないのも女ゆえのことではないかと思い当たったのだろうというのである。

例えば、弁護士をしている36歳の女性であるミシェル・シックスは、ジョン・エドワーズの支持者であったが、オバマクリントンとの討論の中で「彼女はまあかわいげがある方だ(she was "likable enough"」と発言した時に、ぞっとした。見下したトーンを感じ、同時に、他でも男性が女性について失礼なことを言っていることを思い出してしまったという。40歳以上の女性ならこういうった状況に出会ったことがない人は少なかろう。それゆえに40歳以上の女性はクリントンを大統領に押し上げたいと考えたというのだ。それがニューハンプシャークリントンの得票率を押し上げた要因だとする。

しかし、若い層では、ジェンダー差を特に意識したことはないので、このように大統領候補を選ぶ際にジェンダーが影響する場合は少なくなるのだという。


ただし、この記事の見方では、ニューハンプシャーの事前調査でクリントンオバマにせり負けていたというデータに対しては十分な説明になっているとは言えない点があり、まだまだ検討が必要でしょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以下は、昨日のエントリーから考えたことです。「男は理性、女は感情」という我々社会の文化イデオロギーについてです。「政治は理性」の領域とみなしています。

昨日紹介した中に、1)彼女の感情的な人間くさい部分が見えたこと、2)涙をにじませたが、ぎりぎりのところで押しとどまったことの2点がありました。これはいずれも「女性」候補の場合、ぎりぎりの舵取りが要求される点だと思います。1)では、「女性=感情、not理性」というのがありますから、あまり感情的な部分を強く出すと「だから女は大統領のようなリーダーシップに不向き」と言われかねないのですがあまり感情を押し殺していると今度は人間味に欠けるということで支持が得られないでしょうから、今回は感情を押し出すバネが支持をあげることにうまく奏功したということでしょう。いずれにしてもぎりぎりのところでのせめぎあいではないでしょうか。

2)涙をにじませたが、ぎりぎりのところで押しとどまった、というのも、「涙は女の専売特許」と思われていたから、泣いてしまうと「だから女は感情的でダメ」と言われかねないところですが、「ぎりぎり押しとどまった」ところが「さすがクリントン」となるではないかと思われます。いずれも、政治といういわば私たちの文化の中では「男=理性」の世界で女が活躍するには、「女=感情」という文化的イデオロギーをいかに制するか、ということが鍵になってくるように思われます。

そう考えると、男の世界、理性が重要な世界と思われている政治領域に女性が入っていくことは、数が少ないから単純に目立つというメリットもありますが、文化イデオロギーでのハンディをどうするかという点の戦略が重要ということになるでしょうか。

【付記:いただいた反応】


このエントリーに対しある方からメールでいただいた反応を許可を得てご紹介したい。

感情」の吐露として「涙」を取り上げるならば、他の感情(怒り、ねたみなど)表現として男性政治家が得意とする「恫喝」「罵声」など、武器として使っていても問題にならないのはどうしてかって不思議に思います。
「涙を女の武器」として片付けることで、政治の世界に人間味溢れる行為である「涙」を介入させたくない、女性に介入させられたくない男性側の動機付けがあるように感じるんですけど、どうでしょう?

また、「涙は女の武器」とすることで、「男の許す」行為を「本心じゃないけど、涙をみせられると弱いんだよな」と、一定の「男らしさ」を保てるという要因もある気がするんですけど。。。

感情表現での性的制約のことも深く関係してくると感じています。

男性は「怒り」などに社会は寛容ですが、女性がそれをすると「なまいき」「恐ろしい」などのマイナスなレッテルを貼られることが多いんですよね。でも涙に象徴的な、悲しい・悔しい表現を他人に威圧的にならない表現方法で行えば、世間は許してくれるんですよね。これってまさにジェンダーなんですけど。DVや児童虐待なんか夫・妻、父・母のどっちが暴力を振るうかによって全然世間の反応が違うんですよね。

確かに、女=感情という時には、どっかで「御しやすい感情」のみを想定していたなあと気づかされました。「恫喝」「罵声」は、激しい感情が込められたものであります。男性政治家にはこれが得意だった方もおられるでしょうし、このマイナスイメージで失脚させられた方もあるような、、。感情といっても「女は涙」「男は怒り」というように分かれていませんか、という趣旨と受け止めました。

いずれにしろ、政治家になるためには、女性性、男性性にこびりついたイメージや感情をうまく手なずけることが必要ということだけは変わらないでしょう。さらには、感情の中身と性別のつながりぐあいをもっと吟味して行く必要がありますね。