女性学会@青森報告その2-青森の豊かさ

第二弾レポート書きます。学会でのシンポジウム「男女共同参画格差社会」と「シンポジウム「男女共同参画格差社会」の論点を深めるために」という分科会に参加して思ったのは、せっかく青森という都市からはるか離れた地方都市であったにもかかわらず、いかにも東京霞ヶ関で日夜働きづめの官僚や同じく働きモードに傾きがちな学者が考えたワークライフバランスに話が流れたたのは残念だったということだ。地方はワークライフバランスの前に、外国人労働者を入れて賃金の切り下げをはかっていることからもわかるように賃金単価の切り下げや職のなさが課題だ。しかしそれでもこれだけ生活の豊かさが感じられる青森の人たちから「豊かさとは?」とか、「格差ってどうよ?」と語ってもらった方がはるばる青森まで出かけた多くの参加者にとっては有意義だったのではないかとつくづく残念に思った。これだったら何も青森でなくとも東京に、青森の代表を一人招いたら可能なイベントだからだ。

わたしは、今回青森に行って、駅に降り立っておみやげのお菓子をいろいろ試食したり、市場に行って食材のすばらしさと安さに驚いたりして改めて「豊かさとは何か」を考えさせられた。青森ってすごーく、豊かな土地柄だし、生活の豊かさ実感があるんじゃなかろうかと思った。さっそくおみやげに試食して気に入った青森市のおきな屋の紅玉のグラッセを買って帰った。「レベルたかー」と思うお味だった。あんこうを肝の大きさで見定めるために、おなかを切り開いて「肝見せ」状態で新鮮市場(これがご覧のように、市の男女共同参画センターの地下にあるのです)に並べている様は圧巻だった(写真参照)。青森の人はそこまで食べることに執念を燃やしているのだと教えられた気がした。実際、居酒屋「ゆうぎり」さんでいただいた「アンコウのともあえ」は絶品だった。実も皮のゼラチンのところも入っていて、肝を湯通ししたもので和えてあった。地元ではアンコウ鍋よりおいしいとよく食べられているという。ほおーと思った。また、市場にあった白神山地の太い太いわらびには驚いた。みたことない太さと長さだった。山の豊かさを知らされた。青森出食べた「みず」の太さ、みずみずしさにも、富山の「よしな」(同じモノのはずだが、富山のは細い細い)とは別物であることを感じた。帰りの夜行列車の中で出会った84歳で活きのいい青森の野辺地出身の女性からも、「青森は口の贅沢なところ」とその食の豊かなについて眠る前にじっくりと話を聞いた。朝から茶がゆを炊いて食べていたとか、戦前は芥子の実を育ててそれを和え物に入れてこくを出していたとか、いろいろ聞いて感銘を受けた。(食べ物の話だけでなく、生きることについてもろもろすごーく学んだ。ちなみに、戦後駐留軍の軍人宅にお手伝いとして入れたのは女学校卒だけ、小学校卒のひとは「オンリー」になったのだという話もしてくださった)

yamtomさんが青森の女性たち経営の素晴らしい居酒屋さんでも書いておられるが、そこでの食材のすばらしさは、富山にいて日々の食材に恵まれている私にも「すごい!!」と思えるものだった。また、隣で食べていたおじさんたちの話しぶりからも食を楽しんでいることが伺えた。夜行でごいっしょだった、野辺地出身の女性からも、青森の人は海外旅行などにはいかないけど日々の生活にはすごく丁寧なくらしぶりだということを聞いて納得した。そういうわたしからすると、シンポや分科会での議論は、生活実感とは離れたものであった。分科会では青森や岩手からの参加者が多くおられたにもかかわらず、きっと違和感もあっただろうに、都市部から来ている学者が長々と予算獲得競争などについて語られるのをじっと黙って聞いておられた。さぞかし「かったるかったんではないか」と思った。yamtomさんも女性学会レポートその2−学会シンポとワークショップで、「このようなお店を女性ばかりでバリバリやっているという状況と、女性学会で話されていた、「青森県民の意識は遅れている」といったような言葉や、カタカナ言葉の「ワークライフバランス」などはどう結びつくのか。」と書いておられるが、同感である。むしろ、一般に語られている「格差社会」や「豊かさ」の定義が家計や収益などの経済指標を基にしていることを疑ってみてもいいのではないかと思った。経済指標では下の方にあるが、人びとの生活は決してすさんでいない。むしろ豊かな面がある。人口減少社会や、グローバル化などによって、日本社会で右肩上がりの経済成長が望めないのであれば、「豊かさ」とはなにかの定義を再考するいい機会になったかもしれない。それが青森で格差社会を論じる意義だったのではなかったか。

青森県男女共同参画センターの小山内世喜子さんが青森の男女共同参画センターで霞ヶ関から下りてきたワークライフバランスについて講座などでとりあげていると言っておられたが、それがどう受け止められているのかということなどもっとお聞きしたかった。また、同じく小山内さんがこのようなシンポに出て、学者と話が噛み合わないということを当日会場のみんなに向かって言っておられたが、その点もこれを機にもっと議論をしていきましょうというあたりさわりのない話で終わるのではなく、どこに噛み合わないものを感じるのか、をもっと掘り下げてきいてみたかった。その方が有意義だったなあと思える。どれもこれも、「地方に学ぶ」「地方から学ぶ」という発想が、企画者になかったようなのが原因のように思った。なにが重要かを決めるのはいつも東京で決める、都市こそすべての情報が集まっている、学者が一番情報を持っているという暗黙の前提がありはしなかったか、そこに今回シンポや分科会が深まらなかった要因があるように感じたりした。まあ、わたしの妄想ということでしょうが、、。

というわけで、青森に行って「青森の豊かさ」を感じ、それから女性学会@青森でも「男女共同参画」と格差社会を論じるのならいっそのこと、「生活の豊かさ」とか「格差」という定義を再考する機会になったらよかったなーと思ったわけでした。