R.A.A.(慰安施設)に勧誘された実話を聞いた

高岡市男女平等推進センターでのEフェスタ2008「戦争と女性」で舩山房江さんと伊藤冴子さんのお話を聞いてきた。憲法9条ファンクラブ@高岡 主催のイベントに参加してきたのだ。ビデオ撮りが目的であったが、話に引き込まれた。伊藤さんのお話も興味深いものだったが、今日は、ご自身が陸軍からR.A.A.(慰安施設)に勧誘されたという舩山房江さんのお話について書いてみる。房江さんは1925(大正14)年生まれだが、1941(昭和16)年から赤羽の陸軍被服本廠というところで働き、10代後半の娘時代に母親と妹を扶養していたというツワモノ。戦後、高岡に疎開していた母上を頼って帰ってこられた。現在、83歳でシングルの房江さんは、わたしにとってすばらしいロールモデルだ。80代まで生きれるとは限らないけど、もし生きられるなら房江さんのように賢く、おしゃれでかついさぎよい生き方がいいなと日頃思っている、そんな女性である(とてもムリムリと思う自分であるが、、)。

房江さんは、なんと16歳で軍人勅諭をそら覚えして月給100円にもなる軍の仕事をとり、部下を3人ももっていた。この給料はよくわからないが、すごい高級とりだということらしい。16歳で学歴もなかったということだが、実力でゲットした仕事で成果もあげていたようだ。この会場でも、当時これで仕事をとりました、という軍人勅諭というものを朗々とうたいあげられた。記憶力に脱帽だ。彼女は一切メモなしで語り通されたのも驚きだった。しかも具体的な名前にうーん、あれなんだっけというのが全くない。即座に具体名称が出てくるのだ。脅威だ。

ところで、聞き慣れない陸軍被服本廠というのは、 軍帽 軍服 軍靴など兵隊の身の回り品を製造するところだそうだ。房江さんによると防毒マスクもつくっていたそうだ。

このような戦地にいかなくてもいい軍の施設には、著名な陸軍や海軍の将校の息子達が送り込まれていたそうだ。陸軍大将の6男という方もいらしたとか。自分の家族は戦地にやりたくないとそうした施設に送り込む軍幹部たちのエゴというか、身勝手を知ったそうだ。だから、そういう上官が自転車にのったまま挨拶せんかと言うと、「自転車から下りられるまでは挨拶しなくていいことになっております」と言い返したとおっしゃっていた。どっこいしょと上官は素直に自転車から降りてきたそうだ。ほんとに度胸のある方と感心。

ふなやまさんにとって、戦争時は破格にいい待遇の職に就けた時期でもあったし、仕事ができればそれを評価されるということで、自身の戦争体験を決してマイナスとしては思い出していないようだった。女の細腕で家族3人を養っていたという自負もあったので、彼女なりにはがんばって成果が得られた時代という認識があるのは納得できることだ。すごい額の給料だったようだし。しかし、軍で働いた経験を充実していたとか楽しかったといえば、戦争を賛美しているようにも聞こえかねないために、誤解を与えたこともあったらしい。逆にいえば、民主主義といいつつも、戦後は女性である房江さんの仕事や処し方が正当に評価されてこなかったんだろうなとわたしは感じた。

舩山房江さんの話に出てきたことで戦争史として興味深い点を2点。ひとつは、敗戦直後、「男は奴隷になってアメリカに連れて行かれる。女は犯される」といって青酸カリを渡されたが、「わたしせっかく戦争が終わったのになんで死ななければいけないのか。死ぬよりもひどいことがあるものかと思って、手に触るだけでも危ないから土に埋めてしまった」という話。そのころ、「犯される」ということの意味は知らなかったけど、死ぬよりもひどいことはないはずと思って処分してしまったという房江さんの判断力の確かさにわたしは敬意をもった。自分だったらそこまでの判断力があっただろうかと思った。

もうひとつは、敗戦後に陸軍の上官から、「もう一つお国のためになってくれないか」といって房江さんと部下の東北出身の女性2人に勧誘されたという話があった。「宮様の姫様の防波堤になってくれ。ある施設で働いてくれないか」と勧誘されたのだという。宮様の姫様の防波堤・・・なんとすごいことば。天皇の軍隊と思っていないとでないことばでないか。当時、房江さんはそれが何かをまったく知らないまま、富山県に家族を疎開させていたのですぐにでもそこに帰るからと断ったが、ごく最近になってある学習会に出た際に、それが特殊慰安施設協会(R.A.A.)という占領軍に日本女性の性を提供する制度であったことを知り愕然としたと語った。R.A.A.(Recreation & Amusement Association)は直訳で「レクリエーション及び娯楽協会」というとんでもない名称。勧誘された仕事の中身をようやくしった房江さんは、部下の東北の女性たちはどうしただろうかと気になると言っておられた。参加者からは、R.A.A.に軍が関与していたことは貴重な証言だという意見が出ていた。敗戦後、米軍の座間の近くにいる親戚を訪ねたらそこで売春業をあっせんしているのを見知ったという話も会場からでていた。

会場では現在は、戦争前の状況に似てきている。どうしたらいいかという話も多くの方から出ていた。本でも読めるけど、実際の体験を語ってもらうのはやはり伝わり方が違うと思った。30人弱のメンバーで、年齢も高い人が多かったけど、こういうリアルな戦争について、世代を超えて語り継ぐことこそ重要だと思いました。特に、女性たちの話は生活に即していて身近で聞きやすい。それだけでなく、天下国家を論ずるよりも、生活と戦争のつながり具合がよくわかる。経済困窮と戦争のつながり具合なども生活のすみずみをしっかりつかんで話されるので理解しやすいように思えた。