*「ジェンダーフリー」概念と女性学・行政・女性運動の

  • しばらくブログをさぼっていました。11月30日のコメント欄で小川さんが書いてくださったように、12月16日、東大上野研ジェンダーコロキアムにおいて「『ジェンダーフリー』概念からみえてくる女性学・行政・女性運動の関係」という勉強会を山口智美さんと企画させていただきました。
  • そこに100名近い(私が数えた限りでは)方がご参加くださいました。最初、30部とか資料を用意していなかったのであわてて60部刷ってもまだ足りないということで、ご迷惑をおかけしました。
  • 標題のごとく、「ジェンダーフリー」概念を導きの糸として女性学、女性運動、行政の関係を問い直そうというのが企画意図でした。わたしは、「ジェンダーフリー」導入とならんで、「男女共同参画」条例制定運動も行政密着のトップダウン型の女性運動であったのではなかろうかということを問題提起しました。条例においても「ジェンダーフリー」がどのように使われているかを調べると、「ジェンダーフリー」は定義されず意味が定まらないまま使われている。まるで呪文のようだと感じたからです。「ジェンダーフリー」「男女共同参画」は、女性運動を体制順応型に変えたのじゃなかろうか、ということを主張いたしました。そして、「女性運動の戦略」としては、行政密着、トップダウン型から権力関係を変える女性運動へと転換することが重要だということを主張しました。
  • 現在のように、「男らしさ」「女らしさ」といった性差意識、「心のありよう」を問題にする「ジェンダーフリー」では、性差別社会の変革には役に立たないと思うからです。
  • しかし、このことは「性別特性論」が重要だということをわかっていないというご批判も受けました。私は、特性論が日本文化では大きなウエイトが置かれていることを重々承知しているつもりです。それだからこそ、そこに足をとられると本末転倒になるという立場をとっています。
  • 例えば、少し前までは日本語には諸外国の言語にはない「女ことば」「男ことば」がある、と「女性語研究」が盛んでした。しかし、それこそ日本文化のジェンダー規範に絡め取られた研究であったのです。(詳しくは、Yukawa &Saito,2004, Cultural Ideologies in Japanese Language and Gender Studies: A Theoretical Review, Okamoto & Shibamoto Smith eds, Japanese Languagem Gender ,and Ideology, Oxford Univ. Press,を参照ください。)
  • 同様に、研究自体が日本文化のイデオロギーに絡め取られることを怖れています。日本文化における性別特性の特徴は強くあるかもしれません。しかし、日本では「男らしさ」「女らしさ」意識が強固だからそれから自由になることすなわち「自分らしさ」の追求をしよう、という主張が「ジェンダーフリー」教育とされています。しかしながら、そのような「心の持ち方」を教える啓蒙的な教育で、強固な性差別社会を変革することができるでしょうか。
  • 啓蒙・啓発ではもうダメだということで方向転換に制定したのが「男女共同参画社会基本法」だったのではなかったでしょうか。基本法制定に際して、「意識啓発から制度改革へ」をキーワードとして状況の変化が語られていたように記憶しています。
  • それが基本法以後も、各地で条例が制定された後の今もなお、啓発を主要な政策としているかのような状況はおかしいです。「ジェンダーフリー」という意識啓発施策に拘泥している時ではないはずです。どうして制度改革のほうに向かっていかず、「ジェンダーフリー」教育にとどまっているのでしょうか。
  • 最後に断っておかなければなりません。私が「ジェンダーフリー」概念を批判することは決して「後退戦」ではなく、むしろ一歩前に出るためです。逆に、「ジェンダーフリー」は女性運動を行政密着、トップダウン型に変転させたのです。「ジェンダーフリー」という意識啓発策でなく権利、権限を表す「男女平等」概念を使っていこうというのです。ウーマンリブ運動や行動する会の人たちだったら、そんな行政主導、女性運動追随による啓発施策にはとびつかなかったろうと、ウーマンリブ運動の資料をみてきた私は思うのです。