市民運動と行政の関係 再考

  • 3月28日「『朝日新聞』「随想とやまの目」に市民運動とメディアとの関係について書いた。(下記に貼り付けました)その心は、新聞は、もっと嗅覚鋭くいろんな市民運動を取材してね、ということであった。最近、市民運動があまり記事にのぼらならなくなった。それを大変残念に感じているからだ。
  • それと関係するが、行政と市民運動との関係についても日々考えています。本日の『朝日新聞』で片山善博鳥取県知事が、行政は市民運動を毛嫌いしないで、市民運動の公共的なチェック力を借りないと真の改革ができないと言っておられる。これにいたく共感しました。

 「(行政の)改革が本物かどうかを見定めるリトマス試験紙は二つある。一つは、自分を例外にしない情報公開。もう一つは情報公開や住民監査を請求するオンブズマンなど市民団体を毛嫌いするかどうかだと考えている」
「市民団体を私はありがたいと思っている。頼みもせず、報酬を払わないのに、チェックしてくれる。自治体漢文が市民団体からの人材登用に否定的だとすれば、それは自分達の都合のいい改革をやりたいからだ。本当に改革する気があれば、自分達に一番厳しい人を組織にいれるべきだ。継続的に市政を監視している市民団体の方々の協力を仰ぐのは効果的だ。市政は市民がつくるもので、職員厚遇見直しは市民が収めた税金の使い道の問題だ」(『朝日新聞』4月1日 オピニオン面、片山善博氏「どうする公務員の厚遇」三者三論)

  • 私は市民運動関係者なので、最初自分が住む市から「女性プラン」策定の委員会に入るよう声がかかったときにちょっと驚いた。そして案の定、元気な市民運動関係者たちと行政のバトルは激しく展開された。これじゃ委員をやれない、辞めるということもあり、市長ともいろいろやりあったなあ。その時の市長はやはり改革意思が確かだったのだと今になって思う。
  • ただし、どこの委員でもやっているわけではなく、行政との関わりは地元の市だけだ。市民運動をやっているというだけで、通常行政は距離をおきたがる。それも経験している。私など「市民運動代表」でも「女性学研究者」でもあるので、行政の方の対応がそれによって変わるのもよくわかる。それだからこそ、片山知事のこの発言には拍手喝采した。
  • ただし、行政の職員の方も多様である。片山知事と同じスタンスの方も時にはおられる。そういう方が担当された時にだけ運動家でもある私に声がかかるのだと思っている。

 以下、『朝日新聞』「随想とやまの目」斉藤正美 3月28日掲載(一部省略)

ジャーナリズム「嗅覚」が社会変えた
  80年に富山に戻ってから反原発運動、食品添加物や農薬、薬害などを考える消費者運動、メディアの性差別を考える女性運動など様々な市民運動にかかわってきた。25年たった今振りかえって、こうした市民運動はイタリアの社会学者メルッチが言うように「現代の予言者」であったと思う。支配的な文化規範を変えようというメッセージをいち早く送ってきたし、社会はその方向に変わってきている。

  現状に矛盾を感じ、もがき声を上げても、当初は「変わった人が変わったことを言っている」と受け止められ、理解されづらい。そんな時、メッセージに世の中の変化の潮流をかぎつけ、わかりやすく世間に示してくれるジャーナリストの出現があるとないとでは、その後の展開が違ったものだ。
(中略)


  ところで戦後の高度成長期に起きた女たちの「世直し」運動に力を貸したジャーナリストの存在は意外と知られていない。「ウーマンリブ」というと今でも「赤い気炎をあげた女」、「ピンクのヘルメットをかぶった勇ましい連中」くらいにしか思われていないかもしれない。

  しかし、朝日新聞首都部(当時)の蜷川真夫記者(滑川出身)は70年秋、他紙に先駆けて「女ばかりの四人姉妹だったので生まれたときから、また女か、といわれてきた」「差別構造のもっとも小さな単位が家ではないかと思う」なんていう若い都市女性の鋭い洞察を都内版で報じた。

(中略)

  蜷川氏いわく「ジャーナリズムの仕事は、国民の中にある心理的な流れも含め潜在化している潮流を出ている現象で表すこと」。ジャーナリズムの仕事はメディアが多様化している今も米騒動ウーマンリブの時代と何ら変わらない。起きつつある社会のうねりを嗅覚鋭く拾い出し、社会の近未来図として読者にわかりやすく伝えることだ。

なお、全文は『朝日新聞』富山版にあります。ご参照下さい。